トマト丸 北へ!

本と映画、日々の雑感、そしてすべての気の弱い人たちへのエールを

「ぼくはイエローでホワイトでちょっとブルー」 ブレイディみかこ 新潮社

世界一受けたい授業」を見てこの本に興味を持ち、書店で手に取った。「はじめに」を読んで、持ち帰ってじっくり読みたくなり、購入。

「おめえちょっとアンプの音量を落としてくれねえか」

「私の配偶者」のことばが、たぶん元は英語なんだろうが、ベランメエ口調になっている。

テレビを見ていない人もハイソな奥様のイギリス見聞記的なものではないらしいとここで気づくだろう。

著者の配偶者は、ロンドンの銀行職をリストラされた後、「子どもの頃にやりたいと思っていた仕事だから」と大型ダンプの運転手になった、とある。

そのことへのコメントが、「わりと思いきったことをする人である」の一文。

ここを読んで、この人は本物だと思った。

イギリス教育の優れたところ、著者が学んだことを過度に持ち上げることなく取り上げて論じている。イギリス社会の暗部も、抱えている課題も冷静に淡々と描いている。

それは個々の人間に対しても同じで、けっして貶めることなく、理想化することもなく、客観的に観て、でも温かい心を失うことなく描いている。

そうなんだ、と納得する。人にも社会にも明暗両方の部分があり、その中でみんな必死に前に進んだり日常を乗り切ったりしているのだ。自分に都合よく期待して裏切られ怒ることもないし、理想化してあがめる必要もないんだな。

さて著者の息子さんは、優れた指導者のいる幼稚園からハイソなカソリックの小学校へ進んだが、中学校は彼女の言うところの「元底辺中学校」へ進学した。最底辺の学校であったのが教師たちの努力により音楽や学力で頭角を現しつつある学校だ。雰囲気も良くなって来ていた。

しかしその中学校は依然として「殺伐とした英国社会を反映する」「いじめもレイシズムも喧嘩もある」学校だ。

この本は、「どこから手をつけていいのか途方に暮れるような困難で複雑な時代に、そんな社会を色濃く反映しているスクールライフに無防備にぶち当たっていく」アイルランド人の父と日本人の母との間に生まれた少年の母による一年半の記録だ。

この本を読んでまず感じたのは、子どもにとってしっかりと安定した親の愛情がいかに支えになるかということだ。

貧乏な白人たちの中で数少ない有色人種として学校へ通い続けるのは大変なことだ。もちろん著者の息子自身の堅実な性格もあるが、やはり親の無条件の支えと開かれた視点が彼を大きくバックアップしていると思う。

同じような人種的マイノリティのダニエルの抱える困難さを見るとよく分かる。彼が親の持つ偏見を脱却することはなかなか難しい。容姿や才能に恵まれながらもその困難さは彼をいじめられる存在にしてしまうのだ。

文中でも触れられていたが、家庭は子どもの基地なのだ。

もう一つ取り上げたいと思うのは、シンパシーとエンパシーの相違について言及されている箇所。この違いを知らない人は、是非、75ページの説明を読むといいと思う。

sympathy は感情や行為や理解だが、empathy は努力や想像力を必要とする能力なのだ。

私はよく嫌われるし、「変わってる」と言われ拒否られることが多い。「変わってるわね」というのは通常ワルクチなのだ。

カフェに入って「いらっしゃいませ」と言われても五分で嫌われる。店員の私を見る目が険しくなる。

本を読む、友人と談笑するなどの行為は受け入れられるが、私のようなばあさんが猛然とノートを取りながら勉強したりしていると憎まれる(気がする)。普通はOKの「本を読む」でも、付箋を付けたりラインを引いたりしてるともう、不審者になってしまう。だが同じ勉強でも、高校生などが参考書を広げているのはかまわないようだ。

どこか違う=気に食わない=排斥する とどんどん事態は進行していく。

しかし私自身にしても、マスクを顎に引っ掛けてるというだけで嫌な奴だと思ってしまうのだ。(これは特に若い草食系の男子に多い気がする、偏見だけど)

嫌だと思えば嫌う、好きな相手にはやさしくする、自分に利益があればおもねる、これらの行為に特に努力は必要ない。何の苦もなく実行できることだ。

多様性のある社会を望むなら、自分とは「違う存在」を理解する努力が必要だ。その能力が知性というものではないかと思う。

empathy は努力して身に着ける必要がある。考える時間も必要だ。

この本には他にも思考を刺激する箇所がたくさんあった。繰り返し読みたい本だ。もちろん、読み物としても面白い。