WEBマガジン「note」の連載が書籍化されたもの。
帯にも書かれている
私が人生の舵を持つ。私から光を発信する。
なるべく人々の心を忙しくして時間を奪って、深く考えないようにというシステムの中で私たちは育てられている。
たったひとつ抵抗する術は、経済的にそんなに豊かでなくてもいい、ちゃんと働いて税金なども払って、頭の中の自由な世界に泳ぎ出すことだ。
が、やはり心に響く。
周囲の人々に光やエネルギーを貰い、支えられて生きるのは素晴らしいことだが、それに頼った人生では、周囲が変わったり、その人が居なくなったりしたら崩壊してしまう。頼り切ってはいけないということ。基本は自分でなくちゃならない。
「頭の中の自由な世界に泳ぎ出すこと」がたった一つの抵抗だというのにも頷ける。
その世界をこそ大事にしなければならないのだと思う。
私は、自分の「頭の中の自由な世界」をないがしろにしてきた。周囲に適合しようとおもねったり自分を否定することに全力を注いできた。しかもどれ一つとしてうまく行っていない。
最初が間違っていたのだと思う。
自分はほんとうはいったいどう感じているの? というのを、いちいちしっかりわかりたい、と思う。
言い訳になるが、「こう思う」と言うのを許されない家庭だった。なにしろ唯一の教育が「親の言うことに従いなさい」だったのだから。また、私がそれをまともに受け止めてしまう性格だった。いろいろ反抗もしたが、心の底では親に認められなければ生きていけないという擦り込みが一生消えていない。(でもちゃんと教育を受けさせてもらい、愛されたことは事実だし、感謝しているのはもちろん。そこから飛び出せなかった私自身の課題なのだ。)
「親」はその時々で、教師であったり、友人であったり、旅の道連れだったりした。自分の意見を言ったりすることを端から諦めて相手に迎合する習性が言動の基本になっている私は、すぐに交際に息切れしてしまうのだった。相手も見え透いた私のべんちゃらに不快感を持つ。遅かれ早かれまやかしに疲れ切って何もかもぶち壊しにしてしまう瞬間が訪れるのだ。
怒りや抗議の気持ちを表現したり相手に伝えたりすることができず、押し殺してきた。当然怒っていい場面でも、へらへら笑ってきた。
そうしているうちに、恐ろしいことに、いつのまにか「自分がどう感じているのか」すら分からなくなってきていたのだ。俳句が出来ないわけである。
でも、我ながら内心感じ入っているのだが、「本当の私」が消えることはなかった。小さい少女の私は、虐待されながらも生き延びていたのだ。
これからはその子を育てて行こうと思う。
社会的スキルに極端に不自由している私だが、長い苦労の果てに自分自身にたどり着いたように思う。
国家も神様だって、私に起こったできごとが、私の中にゆっくりと落ちてしみこんでいき、ふんわりと発酵して姿を変えていく時間を奪えはしない。
自分がいいものを見てよくなっていく。自分の思うようにふるまう。自分の作るものに自信を持つ。
そうやって自分の時間を取り戻すことが、今まで私を虐めてきた人々への唯一のリベンジだし、他者を傷つける場面を減らし苦い自己否定を含むことなく人にやさしくする方法なのだと思う。
他にもひとつひとつ、心に沁みる言葉がたくさんあった。大好きな、何度も読み返したい本。