トマト丸 北へ!

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池田晶子『残酷人生論』を読む

 

この表題の「残酷」の意味はよくわからない。あまりこだわらなくていいのかなと思うことにしよう。

この本を読んで考えたことはこの3つだ。

①社会と存在

 「人間は社会的存在である」「人はひとりでは生きていけない」

 よく言われることだが、はたしてそうなのか。

 「生存は社会に依存するかもしれないが、存在が社会に依存するわけではない。」

 「私は、社会生活を営むために生きているのではなく、生きるために社会生活を営んでいるにすぎない」

 この順番はだいじだと思う。

 うちの親は私が言うことをきかないと、「外へ出なさい」と言っていた。幼い私にとってそれがどんなに恐ろしかったか。しかし実は大人になってからも、自分が属する「社会」から追い出されることがほんとに怖かった。社会の規範というものがあやふやであるとは知らなかったし、レールから外れると何か恐ろしいことが起こると思い込んでいた。

 実はレールから外れてもけっこう生きていけることを最近になってやっと実感できた。というより、無理やりレールから外れないようにしていると社会から殺されることもあるのだ。自分が「社会」を絶対の存在と捉えていても、社会のほうでは私と言う個人などどうでもいいのだ。

 「私は社会の存在なんてものを、この自分の存在よりも確実なものだと認めていない。認めていないのだから、社会の存在が私の存在をどうこうできる道理もない。じつに自由である」

 ああ、そうなんだ。じっくりと考えればわかることだったのだ。私は、腑に落ちた。今は、じつに自由である。

②倫理と道徳の違い

 「なぜ人を殺してはいけないのかと問う我々は、人を殺してはいけないと、問う以前から知っている。これは もはや規則ではない」

  なぜ人は人を殺さないのかというと、法律で決まっているからでもなく、社会的制裁を受けるからでもなく、なによりもまず「殺すことが嫌だ」からだと思う。理屈ではない。著者はそれを「倫理的直観」と名付けている。

「倫理とは自由である。そして道徳とは強制である」

 もちろんみなが同じ「倫理的直観」を持っているわけではない。

「私は、悪いことはしたくないからしないのだが、多くの人は、悪いことはしてはいけないからしないらしいのだ」

  ある本に、心理学の実験の結果、「いじめた人のほうがいじめられた人より人生の満足度が高い」と分かったと書かれていた。これはどういうことか。その本の著者は「やり切れないことだけれどもこれが現実」だと書いていた。

  どういうやり方で実験したのかが疑問だし、そもそもその実験の正当性客観性もわからない。

  実験そのものについてはだから言及できないが、「人生の満足度が高い」とはどういうことなのか。「自分はいじめをした」という記憶を持ちながら、「いい人生だった」と思えるとしたら、その人はどんな人なのだろうか。何に対して「満足」しているのだろうか。

 「いじめ」という抽象的なことではなく、具体的に「他人を殴打したことがある」とか「幼いものをいたぶったことがある」という案件だと考えたらどうだろう。それは「いじめ」とは違うというひとは、「いじめなんか大したことじゃない」「逮捕されたり罰せられたりしなければいいのだ」とみなしていることになる。

  これは人生に対する満足度の問題ではなく、その人の倫理観の問題だ。

  「他人を殴打したことがありますが」「幼児を虐待したことはありますが」私は自分の人生におおむね満足しています」と答える人について、何が言えるだろう。

  「何をもって”満足”というのか」という問題はやはり残る。

  この実験でわかるのは、世の中には「倫理的直観」を持たない人もいるということだ。それは、実験しなくてもわかっているはずのことである。

  自分がしあわせに生きるために必要なのは「道徳」か「倫理」か。あたしに限って言えばそれも自明のことである。自明でなくても、考えてはっきりさせることはできる。

  「なぜそうなのかはわからないが、明らかにそうでしかあり得ないそれ、それが『その人』という魂なのである」

(「あたしはいい人です」と言ってるように聞こえるかもしれないが、そうなのだ。少なくとも「善くありたい」と思っている。)

③幸福な魂

 「幸福な魂は金満であれ清貧であれ、幸福だろう。不幸な魂は、金満であれ清貧であれ、不幸だろう」

 「他人と比べて不幸、他人と比べて幸福、そのようでしか幸福であり得ない、これは不幸なことである」

 幸福とは「魂の構え」だと著者は書いている。

 「なぜ人は、自分で幸福であろうとはしないのだろうか。自分以外のいったい誰が、幸福であることができるのだろうか」

 「善くなる努力をしない人は不幸なのである。幸福とは善い魂のことである。善い魂であるということが、幸福であるということだ。善くなるために努力している魂もまた幸福である」

 幸福な人は何を為すか。

 「才能の人は才能を為し、凡庸の人は凡庸を為し、各々自分の職分と持ち分において為すべきことを為し、とくに何を為すというわけではないだろう」

 そうなんだよね。いつでも、どこでも、誰でもすぐ(かどうかはわからないが)幸福であることができるのだ。

 「自分が居て、宇宙があるということは、なんと神秘か、不思議なことかと、普通に感じられてさえいるなら、答えはそこに尽きているのだ」

 

 この本の内容をちゃんと理解しているかどうかはあやしいが、こんな形であたしは「腑に落ちた」。