トマト丸 北へ!

本と映画、日々の雑感、そしてすべての気の弱い人たちへのエールを

『大いなる遺産』鍛冶屋のジョーは悲しいほど良い人だ。

 

下巻を読むかどうかわからない、と始めに言っておく。

鍛冶屋のジョー・ガージャリーの妻であり自分の姉である「ねえちゃん」に「哺乳瓶で手厚く」育てられたピップの数奇(と言っていいだろう)な人生の物語だ。

物語ぜんたいが暗い。毎日15分読むという決め事さえしていなければ終わりまでは読まなかった。積み重ねと言うのものはやはり大したもので、だんだんと読み進み、慣れてくるとスピードも出てくる。引き込まれもする。臨場感、重厚な世界。西洋の小説家はすごい。

この物語の中で心を温めてくれる存在はおとなしい鍛冶屋のジョーと近所のビディさんだけだ。特にジョーは悲しいほどいい人だ。

気性が荒くたびたび手をあげさえする妻(つまりピップの姉・もちろんピップも悲惨な目に遭っている)にひとことも逆らわないジョー。それには理由があって、夫に虐げられていた自分の母親の思い出のために、女の人にはやさしくしようと決めているからなのだ。妻が暴漢に殴られて廃人のようになってしまっても、彼は見捨てない。それどころか可哀そうにと悲しみ大切にする。この家に身を寄せたビディさんも、やさしく彼女を看取る。

上巻で幸せそうな人と言ったらこの二人だけだ。あとはひどい人たち。ピップも若いからしょうがないとは思うが、どういうものか。ピップがロンドンに出てからは、もっとやり切れない人たちが続々と登場する。世の中ってこうなんだ、と腑に落ちた気がする。私が以前住んでいた場所も、こんな感じだったと思う。昔も今も、東も西も、現実はこうなのだ。

ジョーとビディさんが救いだ。彼らは善い人だ。幸せそうでもある。この二人がどうなるのか、知るために、そして世の中がどういうものなのかを知るために、やっぱり下巻を読もうかしらん。お花畑な書物ばかり読んでいると、かえって暗くなる。感動も希望も、現実を観るところから生まれるのかもしれない。

心に残った一節

p383 転げまわって発育するいろいろな段階の六人も小さな子どもたちがポケット家にはいた。

 この巧まざる感じのユーモラスな表現!

p456「ピップ、なあ相棒、要するに世間ってやつはいろんなものが繋ぎあわさってできているんだよな。鍛冶屋になるものもいれば、ブリキ細工屋や、金細工屋に、それから銅鍛冶屋になるのもいるんだ。こんなものでも隔たりは当然出てきちまうもんだから、そのまま受けとめるのが当然なんだよ。今日、ちょっとでもなんか不束なことがあったんなら、そいつはおいらが不束者だからだよ。おいらときみはロンドンで一緒にいられる柄じゃねえからな。それにどっちみほかのどこでも駄目だな。~~まあ、こんな服を着て、おいらもう二度ときみに会いたかねえよね。こんな服着るのは間違いだ。鍛冶屋からも、キッチンからも、谷地からも、出てきちまったのは間違いだったな。ハンマーか、いや、パイプでもいいんだが、そんなのを手にして鍛冶屋の作業着でも着てりゃ、今の半分もおいらが不束者だとは思わねえさ。~~~」

 思わぬ幸運で巨額の財産を手に入れたピップはロンドンへ出て、贅沢三昧の生活を送っている。訪ねて来たジョーは、借り物の服でめかしこんでいたがちっとも似合わず田舎者まる出しで、ピップはジョーを恥ずかしく思いろくに話もしないのだ。そのときのジョーの言葉である。ジョーが単なる気の弱いお人好しではなく、誇り高くまた深い叡智の人であることがわかる。

 ジョーは一言もピップを責めず、「ぼくのおでこにそっと触れて」出て行くのだ。

p458 この世のペテン師というペテン師なんかどれも、自分を欺くペテン師に比べたら、物の数じゃない。

 ほんとうにその通りだと思う。どんなひどい詐欺に遭うより、自分で自分をペテンにかけるほうがずっと有害だ。私は、よくやってしまう。