トマト丸 北へ!

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角川『俳句』2024年5月号を読む

いつも楽しみに読むのは「日本の鳥たち」(撮影・解説 大橋弘一)と「俳句の中の虫」(奥本大三郎)、「「妄想俳画」(田島ハル)。

5月号でおもしろかった読み物は「都市詠の秀句 嬉しくなっちゃった」(西村麒麟

冒頭「先日俳句を作りに伊勢へ旅をしてきました」とある。

そうか、俳人は俳句を作るために旅をするんだ。旅をしてその記録で作句するんじゃない。そのために行く。

芭蕉の「奥の細道」だってそうなのかも。

「吟行」というのは「俳句を作るための旅」なんだ。

当たり前のことかもしれないけれど、はっとした。

「俳句をつくるための」旅をしようと思う。この一文だけでもパッと心を広げてくれた。

観光地での俳句のほとんどは「見たよ俳句」や「楽しかったよ俳句」をなかなか超えることが出来ません。

私なんか、作る俳句のすべてが「見たよ」「楽しかったよ」で終わっている。あるいは「雰囲気だけの句」。

「嬉しくなっちゃった」ではだめなんだと、この文章を読んでわかった。

「都市詠」ということばも私には目新しい。

都市は「人口、文化、政治の中心地」。それを詠むおもしろさがわかった。

今私は遠くへ旅することがかなわない状況にあるけれど、開き直って「東京」を詠んでみようかなと思う。

 

気になった俳人

才野洋『夜桜』が、印象深かった。

春空を次々目指す観覧車

目標はわんぱくぢぢい草燃ゆる

畑ありて小屋ありて野路あたたかし

乗船はICカード風光る

星空と語る大樹の桜かな

情景がパッと浮かんでくると同時に明るい精神が沁みてくる。

 

五月号で刺さった三句

鎌倉やいつもどこかに鉦叩      星野立子

目標はわんぱくぢぢい草萌ゆる    才野洋

落ちながら瀧であったと気付くのか  池田澄子

 

「鎌倉や」の句からは、鎌倉の闇が伝わってくる。血と怨念の歴史。

「わんぱくぢぢい」、いいな。女は死ぬまでイケズ、男は最後までわんぱくでいたい。

池田澄子さんの句、胸がとどろく。行動して、動きがあってはじめてその本質が露わになる。自分はこうなんだと分かる。「落ちながら」がドラマチックだ。