トマト丸 北へ!

本と映画、日々の雑感、そしてすべての気の弱い人たちへのエールを

『ひとりで生きて行く』ヒロシ               廣済堂出版

 

ひとりで生きていく

ひとりで生きていく

 

 もうこれこれ、という。すごく共感した部分とヒントをもらった部分とがあった。

共感したのは、

ひとりで生きる。それは旅をするように日々生きるということ 

おこがましいかも知れないが、これはほんと、私もそう思っている。なんなら「ティファニーで朝食を」のホリーのつもりでいたりすることもあるくらいだ。

誰にも頼らない、誰にも縛られない、誰も愛さない。風のように自由で居たい。なんて、とても出来てはないけれど、そうありたいとは思ってる。

こうなるまでにたどったルートも著者と似ている。

P15~「同級生が僕と話してくれるときの条件」は、とても身につまされた。

個人同士なら比較的仲良く話す間柄であっても、集団でいるときは途端に態度を変える。このようなことは大人になっても度々あった。

 私もそうだった。そしてヒロシさんと同じように「とても恥ずかしく、とても惨め」だった。

そもそも友人関係が絶対的なものだと考えること自体が間違っているのだ。

今日、いくら親しくしていても、明日どうなるかなんてわからない。僕は人間関係の全般をこう考えるようになった。そして、そう覚悟を持てば、日頃話をしている人がいきなり冷たい態度を取ったときに傷つくこともないし、まして隠れたりする必要もない。 

 この通りだ。裏切られたというよりは自分の勝手な思い込みに赤面することが多かった。私が勝手に友人だと思っていただけなのだ。向こうはそう思っていなかった。あるいは友達だったけれど事情が変わった。それだけのことなのだ。

愛し合って結婚したはずの夫婦ですら憎み合って別れることもある。

人間関係は固定的なものではなく流れていくもの 

そういうことだ。

二度と会うことのない人でも丁寧に接する

誰とでもフェアに接する

しかしこれで波風立つこともある。また、「明らかに失礼な態度をしてきた人にはぶっきらぼうに接するが」とあるように、丁寧に接していると組み易しと見て上から物言い始める人もいる。何事もやり通そうと思うと根性が必要だ。人に対する態度を一定させるというのは私にはとてもハードルが高い。がんばりたいが、すぐにへこたれてしまう。

次の、いじめられないためには「中途半端に群れない」は、ついこの間までこれをやって却って虐められてきたのですごく納得だ。

ひとりというのは力がない。だからついつい強いものを宿主に選んだり大きな集団に属したりしようと、寄生してしまうような生き方をしがちだ。

 これはいただけないと著者は言う。

たとえ弱いままの自分であっても等身大で生きていきたい。 

 私はこれが出来なかった。強そうな人に(特に男性に)媚びてしまいがちだった。媚びに徹しておとなしくしていればまだいいのだが、媚びる自分と自分勝手に行動したい自分が両方居て、結果恐ろしい怒りを買うことになるのがよくあるパターンだった。おバカで可哀想だった。

僕のように群れることができずに、ひとりで生きる選択をした者は、誰にも寄生することなく、常に固定させない人間関係の中で生きていくのが大事だ。 

 この部分、忘れないようにしようと思う。「中途半端につるまなければ嫌われることもない」のだ。って、誰か早く私に教えてくれれば良かったのに。

著者が望む人間関係とは「共通の趣味と話題を通じたゆるい人間関係」だ。

そのためには「他人に勝手に期待しない」ことがだいじだと言う。

著者の子供のころの体験で、野球の練習でぜんぜんバットを持たせてもらえなかったとき、「僕が当時ショックだったのは」「チームメイトがだれひとり助け舟を出してくれなかった」ことだと言う。これもほんとによく分かる。私もよく、こんな理不尽な目に合ってるのに見殺しにされるなんてあり得ない、と思っていた。でも、「それだけの関係でしかなかった」のだ。期待した私が愚かなのだ。「つまり、これは相手の問題ではなく、自分の問題だ。」

「誰かが自分のために何かをしてくれる。そんな気持ちこそがおこがましい」のだ。ほんとに、自分は何も出来ないくせに相手にはスーパーマンに変身してくれと願ってるようなものだった。みんな自分のことで精いっぱいなのだ。

第2章からは、ひとりで生きようとする私へのヒントになることが多かった。

まず「ひとりで生きられる場所に逃げる」。「戦わない環境」、惨めな気持ちにならないで済む環境、「比べる対象のない環境」、マウンティングの泥仕合をしなくて済む環境、へ逃げる。そこにいつも居られれば最善だが、逃げられる場所を作って持っておくだけでもいいと思う。

僕らは個人対個人で付き合うことに専念すべきだろう。ひとりで生きていくにはあらゆる人間関係をフラットに築いたほうがいいのだ。

相手が名刺を出してきたら、それを受け取りながらも、名刺は出さず、丁寧に自分の名前を告げればそれでいい。それで離れていく人は、自分から追わないことだ。

 この「名刺」というのは、収入や夫や子供の出来や住んでいるところなど世間的価値を前面に出してくるのと同じ意味だと思う。そういう人がいると私はあからさまに引いてしまったりしていたが、今思えば「そうですか」と普通に言っておけばよかった。まして、お返しに勝てそうなカードを切ろうとしなくても良かったのだ。結局そういう人に私が勝つことなんてあり得ないのだから。

しかし、僕は僕としてしか生きることはできない。だから、敵は作りたくないのだが、それで嫌われてしまうのであれば、これはもう仕方がない。 

 「ひとりぼっちがいちばんラク」。このことである。私もハブられたハブられたと被害者みたく言ってきたが、ほんとは一人でいるほうが好きだった。大勢でキャンプに行っても、よく一人で砂浜を歩いたりしていた。グループで旅行に行っても、夜一斉に電気を消して寝たり、同じテレビを見たりしなくてはならないのが苦手だった。夜中に起きだして廊下の隅で本を読んだりしていたのだ。

著者が書いているとおり、「ひとりでいることにやきもきする」ときは「ひとりでいることへの他人の目が気になっているとき」なのだ。

「基本ひとり」と決める。そうすれば、ひとりぼっちで不安になることはない。 

 グループで行動している人も、楽しんでいる人ばかりではないことを見聞きしている。中には私と同じように無理をして仲間に加わっている人もいるようだ。「基本ひとり」と覚悟を決めればラクになるが、そうなるまでが私は大変だった。今でも他人の目を恐れる私がいないわけではない。

著者が言うように「ひとりで楽しめる者同士で仲間の輪を作ってみるのは面白い」と思う。しかしそうなるにはまだ私は未熟だ。もっとひとりを極めねば。

他に「たくさんのタネを同時に蒔く」(P170)というのも参考になった。やってみようと思う。芽が出なくても構わない。生き方として面白いと思う。いや、ひとつくらいは・・・と、いつまでも希望だけは持っていたい。希望を持つのは自由だから。

ヒロシさんは山林の土地を購入したそうだ。そこをひとりで開拓しているそうだ。いいな。

でも、私にはこのブログがある。今はここが私の場所だ。好きなことを好きなように書いていける場所だ。 公共のようで公共ではない。個人的なものだけれども完全に閉鎖されているわけではない。こんな場所があって、今はほんとにいい時代だと思う。

ともあれ、ヒロシさんにとても勇気づけられた。そうだったのか!と覚醒する部分もあった。いろいろやってみようという気持ちも湧いてきた。リア充でない人はすぐに読んだ方がいい。

 

白菜に付いていた黒い幼虫の正体はカブラハバチ

道の駅で買った白菜は無農薬だったらしい。虫の糞がいっぱい付いていた。そして見つけた黒い幼虫。

子供のころキャベツ畑で青虫を取って虫かごに入れ、蝶々になるまで飼って楽しんでいた。むしゃむしゃと葉っぱを食べる青虫が可愛く、羽化して羽根が伸びて行くのを眺めたり、成虫を外へ放しに行くのが好きだった。

それを思い出してこの虫を飼ってみようと。黒い色が何か不吉ではあるが、とにかく蝶か蛾か、そんなものだろうと考えた。どんな成虫になるのか楽しみだ。苺のケースに白菜を何枚か入れ、ラップで蓋をして空気の入る隙間も開けて。明日は虫かごを買いに行こうと思っていた。

ラムと名付けた幼虫は始めは丸く縮こまっていたものの5分もするとすっかり新しい住処に慣れて黙々と葉を食んでいるようす。安心しきった姿に愛情を感じ始める私。

でもここで理性が働いた。やはり正体不明というのはいかがなものか。

ネット社会はありがたい。「白菜に付く黒い虫」で検索してみるとすぐに出てきた。

カブラハバチ。「カブラの葉を食べる蜂」の意味でアブラナ科全般の葉物に付く。成虫の蜂が葉肉の間に卵を産み付け、孵化した幼虫がやわらかい葉を中心に食害する。「なのくろむし」とも呼ばれる。

害虫なのだ。しかも蜂。画像で見てもほんとに蜂だ。ごめんね。速攻苺のケースごとビニール袋に入れて生ごみにしてしまった。彼はきっと、一度は助けたくせにと人間不信に陥っただろうと思う。

でも、無農薬の新鮮野菜はやはりうまい。ふだん生野菜など食べないうちのマル君も先っぽの柔らかいところをかじっていた。

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カブラバチ幼虫のラムくん

 

リーンゲインズダイエットは痩せる❣

3月にリーンゲインズダイエットを始めてから約2か月が経過した。減った体重は1.5㎏。少ないと思う人もいるかも知れないが、この1.5という数字は持続可能な1.5だ。不可逆的1.5キロなのだ。 無理して短期に達成した1.5とは違う。

本格的なリーンゲインズダイエットは筋トレも含むらしいが、私は午後9時から翌朝11時までのプチ断食のみやっている。私にとってはほどんど我慢の必要のないことなので、続いている。食事に関して我慢や制限はほんとうにダメ。

私の場合だけかも知れないが、品目や量を抑えようと決めたとたんに制限したものがすごく食べたくなる。一日中たい焼きのことを考えてしまう。そして結局食べる。だって明日死ぬかも知れないのにたい焼きを食べないままで後悔しないと言い切れる? そして食べるとなると我慢していた分、半分だけというわけにはいかない。そこで堰が切れるとその他の高カロリー食品に対する耐性はもうゼロになってしまうのだ。特に少し効果が出て痩せ始めたときが危ない。もう3キロ痩せた、万歳! となった瞬間その気分の高揚が食欲へと直結してしまう。

11時過ぎたら好きなだけ食べてもいいと思っているだけで、そんなに食べたくならないのだ。

それともう一つ、「リーンゲインズダイエットは痩せる」「この方法で絶対にうまく行く」「プチ断食で胃腸が休めている」と信じている。信念はストレスを軽減する。ストレスの軽減は食欲の軽減につながるのだ。

この調子で行けば年末までには目標の55㎏に! これが私の2番目のSDGsです。

森の池で泳ぐ小人

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森の池

こじんまりとした公園だが緑は深い。この季節は池の周りの柳の木の緑が殊に良い。桜のころには池に張り出した木がこぼれるように花をつける。

池には鴨が泳ぎ、シラサギやカワセミも来る。鳥を撮るカメラマンも来る。

この朝、金髪の小人が池で泳いでいた。まだ水は冷たいだろうに。気づいたのは私だけのようだった。誰にも言わなかった。

養老孟司の幸福論  中公文庫

 

養老孟司の幸福論 - まち、ときどき森 (中公文庫)

養老孟司の幸福論 - まち、ときどき森 (中公文庫)

  • 作者:養老 孟司
  • 発売日: 2015/07/23
  • メディア: 文庫
 

 この本を読んで取り入れたいと思ったことは2つ。

ひとつは、「田舎に行け。そこで時を過ごせ」。

人は「人事の世界と花鳥風月の世界を行き来しながら生きてきた」「私たちには自然の世界(花鳥風月の世界)が半分そなわっていなければいけない」と著者は書いている。「花鳥風月の世界」とは、人間の意識の外に人間の意思とは無関係に広がっているもの」だ。その世界を失いつつある現代人は、自然とのつながりを取り戻す必要がある。

しかし「自然はリスクそのもの」だ。著者の大好きな虫取りも、ときには命の危険を伴う。しかしそれでも行くと著者は言っている。要はリスクを恐れていては何も出来ないということだ。確率というものも色々な側面を持つ。9割安全と言われても、そこへ踏み込む一人一人にとってはZEROが100か、2つに1つに過ぎない。要は「やってみるしかない」のだ。危険を恐れて家の中に閉じこもっていることを選択するか、それでも出て行くか、ということだ。

自然はどこから入ってもよく、すべてがつながっています」と書かれている。窓辺に置く緑を見つめることでもいいのかなと思う。山でも海でも、好きなところへ行く。人事の世界以外の世界を感じて、自分の中に取り込むこと、なんだな。

人間の身体もまた自然だ。頭で考えて、コマーシャルに扇動されて、あたかも何か手段を講ずれば老いからも死からも寝たきりからも逃れられるかのように私たちは思いこまされている。そうではないと著者は言っているのだと思う。老いも死も寝たきりも、免れがたく、そうなるかならないか、いつそうなるかは分からない。自分の身体に向き合い続けるしかない。検査や診断に頼らず「体にきく」ということ。これを忘れてはいけないのだ。

もう一つは、「本気になる」ということ。「『ああすればこうなる」という思考法は人の人生をつまらなくし、場合によっては人を不幸にしている原因のひとつ」だとある。本気でやるためにはリスクを計算していてはだめだ。「やってみるしかない」のだ。

それぞれの人が本気でやっていれば、世界はいいところになる。それを不純な動機で動くからーこのほうが楽だとか、このほうが儲かるとかーそういうことが世の中を悪くしている。これも、本当は誰でもわかっていることなのだと思います。 

 飛躍するかもしれないが、本気でやることこそがGIFTであり祝福なのだと思う。リスクがあっても、不確定要素があっても、やるのだ。でも、それじゃあだめだ、と思って人は違うことをしてしまう。そして本気でやっている人を冷笑する。隙あらば違うことへと誘いこもうとする。そんなことを考えた。

この本を読んで「田舎へ行け」「本気になる」の2つを自分の生活に取り入れたいと思った。

もうひとつ心に残ったのは、日本の自然について書かれている部分だ。緑の多様性、川の透明度、「これほど裸の地面がない国は少ない」など。もっと日本の自然に触れようと思う。コロナが収束したら、著者が美しいと言う四国の新緑を見に行こう。

 

謎のお弁当

今週のお題「お弁当」

30年以上も前になるが、地方都市に赴任していたつれあいが東京に戻ることになったとき、最後に周辺を観光しようと言われて一日をひなびた村に遊んだことがあった。

謎だらけの一日だった。

まず、つれあいが日頃仲の悪い私を誘ったのが謎。そのころはあまり口も利かない仲だったのにどうして一緒に出掛ける気になったのかわからない。

また、そのときの転勤がつれあいの仕事上どういう意味のものだったのか、はっきりしない。栄転ではないという雰囲気だったが、左遷とも言い切れない感じ。日頃私に仕事の話をほとんどしない人なので状況がつかめなかった。

そのあたりの出身だと言うつれあいの部下の女性が案内してくれたのだが、特に話題もなく淡々と見て回った。休日にわざわざ案内してくれたのは左遷への同情なのか、特に可愛がっていた部下なのか、それもよく分からない。公私をきちんと分けるタイプの人だと思っていたので意外だった。

その日は日頃家事を全くしないつれあいが弁当を作ってくれた。これが一番の謎である。お店に入って食べるのではなくピクニック。それも、つれあいのお手製である。

そのお弁当は、おにぎりと漬物と卵焼きだったと記憶しているが、おにぎりは両端が尖ったラグビーボールのような形の大きめのものだった。普通に美味しいおにぎりだったが、どうして両端を尖らせたのか、どうやって握ったのか、それも謎であった。

『東海道戦争』 筒井康隆 中公文庫

 

東海道戦争 (中公文庫)

東海道戦争 (中公文庫)

  • 作者:筒井 康隆
  • 発売日: 1994/12/01
  • メディア: 文庫
 

 筒井康隆の短編集。表題作「東海道戦争」が良かった。

東京と大阪が戦闘状態になるというビックリポンの状況。しかし克明な描写は実況感たっぷりだ。

戦争の本質。その訳の分からなさ、いつ始まったのか寝耳に水の勃発、精神の高揚、ヒロイズム、混乱、カオス、混乱による快感、一体感、お祭り騒ぎ。そして現実は、破壊、吹っ飛んだ指や手、胴から離れた首だ。その中に居ると原因や理由、現在の状況を問うことすら無意味になってしまう。

そういう、戦争というものの恐ろしさを感じた。