トマト丸 北へ!

本と映画、日々の雑感、そしてすべての気の弱い人たちへのエールを

オリンピックが(やっと)終わった

なんか、私にはやなことばかりのオリンピックだった。

開会前のごたごた。日本の抱えている問題が次々と明るみに出たように思う。

隠ぺいされなかっただけでもいいのかもしれないとも思うが、差別の問題、権力の横暴、無策、などこれから何か改善されるのかどうかも心もとない気がする。

開会式は見たが、心打たれたシーンもあるが正直がっかりだった。これをほめている人は信用できないと思った。

もともとスポーツ観戦には興味がないので開催中もほぼ日常と同じに過ごした。それでもオリンピックは目に耳に入ってくる。

「オリンピック反対していた国民も金メダルラッシュが起こればがらりと雰囲気が変わるだろう」との予測がほぼ当たってしまう。

してやったりの口調になるのも致し方ないが、「オリンピックに反対していたくせに日本選手を応援し金メダルを喜ぶ掌返し」を冷笑する人々には「小学生か!」とげんなりした。

「オリンピック、やってよかった」とアンケートに答える人々も多い。なんだか愚民の群れを見ているような気がした。オリンピック後そのつけが「コロナの蔓延」や「経済の圧迫」などの形をとって回ってくるかもしれないと思わないのだろうか。

2か月延期されていたら私も少しは種目によっては楽しめたし、観客も入って選手も国民も楽しく世界から観客を呼ぶこともできたのではないか。

この先どうなるか分からないから、とにかく7月8月でやってしまおうということだったんじゃないかと思うのは邪推だろうか。

でも実際は最悪の時期だったのではないだろうか。

テレビをちょっとしか見ていないのに批判するのは良くないが、日本ばかりを応援しているように見えたのは僻目だろうか。遠い国々から来てくれた選手たちを応援し称えてこそのオリンピックの意義ではないのか。選手たちは国威発揚のためにがんばっているのだろうか。「日本が勝ってうれしい」という素朴な気持ちもわかるが、それだけでは空しい。

私の見た部分では、唯一松岡修三さんだけが他国の選手を称えておられたように思う。オリンピックのような大きなイベントではそれぞれの人間性があらわになるんだな。

選手へのインタビューが不快だった。「負けた」選手への容赦ない質問。

泣いている選手に、「その涙はどういう涙ですか」と尋ねているのを見た。いつかその男が失意に泣いている瞬間をねらって「それはどういう涙?」と聞いてみたいものだ。

閉会式の前のテレビでいい場面も見た。スケボーの女子選手が転んだとき、涙を浮かべて戻って来た彼女を何人かの選手が抱きしめて慰めていた。日本の選手も他国の選手も一緒だった。

次回の開催国フランスの映像は明るく、青空が目に染みた。希望のように感じた。洗練されており、パリに行ってみたくなった。

日本だってこのくらいのことできたはずなのにと思うと残念だ。

こんな感じで私のオリンピックは終わった。

後に残ったのは予定していた息子の帰省がどうなるのかという問題と、日に日に弱っているMotherにもしものことがあったとき帰れるのかという問題だ。

 

宮部みゆき『ぼんくら』は「サイダーハウス・ルール」の世界

 

 

 

 読み始めてすぐ、ジョン・アーヴィング原作の映画「サイダーハウス・ルール」を思い出した。

1999年のアメリカ映画だ。孤児院でラーチ医師の手伝いをしながら医術を身に着けた青年ホーマーは、外の世界を観たいという願望から孤児院を出てサイダーハウス(リンゴ農園)で働き始める。農作業員たちの住む小屋の壁に貼ってあった紙に書かれているのがここの規則「サイダーハウス・ルール」なのだ。

彼の成長と共にこの「サイダーハウス・ルール」の意味が明らかになっていく。大切なのは上から決められた規則(つまりは「道徳」ということだと思う)ではなく、自分たちが生きるために必要な、ほんとうに人を救うルールだ。そのルールはお仕着せのものではなく自分たちで決めたものであるべきだ。だいじなのは、見栄でも世間体でもない。人の心、人の命なのだ。

映画「サイダーハウス・ルール」を見て感じたのと同じようなことを感じた。

八丁堀の同心井筒平四郎の父は気難しい人物で、子どもである平四郎を可愛がることもなく邪険に取り扱っていた。そこで平四郎は十くらいの時分「いっそあんな父上など死んでしまえばよい」と思い、敷居の上で飛んだり跳ねたりした。そのころ敷居を踏むとその家の当主に身に災いがふりかかるという迷信があったからだ。

べつに何も起こりはしなかったが、平四郎は幼心に「迷信など当てにならぬ」と悟った。主人公はそういう人物だ。とんだ親不孝者なのだ。しかし自分の心にまっすぐに向き合って、無理に押さえつけたりしない。

「迷信」には、当時人が守るべきことと信じられていた「親孝行」などの美徳も含まれる。どんな親であっても、子たるもの孝養を尽くすべしと世間は言い、人々はなんの疑いもなくそれを信じて実行していたのだ。たとえどんな親であっても。

しかし平四郎は「いくら娘だからって、博打狂いの親父を見捨てていけないというわけはない」と思うのである。

そういう平四郎のキャラ設定が、この物語のいちばんの魅力になっている。ことさらに世間の常識にたてつくわけではないが、出世にも手柄にも勤務成績にも興味はない。楽しみはお徳の煮売り屋でコンニャクなどをつまみ食いすることだ。仕事である「見回り」についても独自の見解を持っていて、お徳の煮物をついばみながら路地を通る人々を眺めることも「見回り」の一環なのである。

平四郎が重んじるのは、自分たちの心に沿う自然な気持ちだ。自分もそうありたいと願っているし、他の人たちにも無理にがんばってほしいとは思わない。平四郎がいくら暢気な性格でもこの世は桃源郷ではないし陰惨な事件が起こりもするのだが、彼の目を通して見ることが救いになっているのだと思う。

鉄瓶長屋に次々と起こる事件の謎。めくるめく展開を見せるそれらは、漆黒の糸で織られた曼陀羅のようだ。その中にのんびりと穏やかに、平四郎がいる。

土屋賢二『不要不急の男』は一冊で、二度とは言わず三度四度おいしい

 土屋先生が老人ホームに入られた。土屋先生がマンション暮らし。なんだかショックだった。お年は知らないが、なんとなく親戚のおじさんみたいな親近感を勝手に抱いていたのだ。

でもお元気で快適に過ごしておられるようで一安心だ(ほんとに余計なお世話である)。

老人ホームの利点として挙げておられる点。

 「居心地はいい。今後何百年でも住んでいたいほどだ。」

 「職員の人たちはとても親切だ。」

 「行動は自由だ。」

これらは今の住まいで私が感じていることとほとんど同じだ。居心地はいいし、警備員の人やスタッフの人たちはみな親切。そして自由がある。

土屋先生のマンションとの違いは「緊急ボタン」がうちには無いということ。しかしこれは警備会社にオプション機能をつけてもらえば可能となる。

先生と同じようなことをメリットと感じているのがちょっとうれしい。

「ただ管理費を滞納する自由はない。」これも、一緒。戸建てだと管理費の心配はない。しかし間断なくメンテナンスをしなければならないから、その手間と費用を考えれば相殺される。

ほんとにお互い思い切って引っ越して良かったですねと言いたい。

土屋先生が居心地よく、自由に、変わりなくひょうひょうと生きておられることがうれしかった。土屋先生の文章はすらすら読みやすく楽しいが、どこかでヒヤリとしたりむむっと考えさせられたりする。読み返しても楽しい。たまにだが、文春を買ったときはいつも「ツチヤの口車」を真っ先に読んでいるのだ。

宮部みゆき『ICOー霧の城』上・下は読む3D

 

 

 

トクサ村には何十年かに一度頭に角の生えた子供が生まれる。その子はニエとして「霧の城」へ送られる。それを否めば村に恐ろしい危難が振りかかるのだ。

イコが生れ落ちるとすぐに父母は村を出た。13歳になって角が大きくなってニエとなる時が訪れるまで村長の家で育てられるのだ。

村の平和と安穏のために犠牲を捧げる風習。村長は自分の義務としてイコの両親を説得して村を離れさせ、いよいよイコがニエとなる年齢に達したときにはイコを我が子以上にいつくしんで育てた妻を説得して御印を織らせ、イコにもニエとなる運命を納得させる。逆らうことの出来ない大きな力がニエを要求しているのだと。

イコの周囲の人々が心を痛めていること、平気じゃないことが救いだけれど、ずいぶん酷い習いだ。一人の犠牲で大勢が救われる。それが一過性のことではなく社会の仕組みにまでなっており、しかもやられるのは子どもなのだ。

でも、こういうことあるなと思う。人の世の闇として存在することだ。現実の世界では村長たちのようにイコの運命を悼むことさえせず見て見ぬふりをする人も多いくらいだ。

イコの親友のトトだけが納得しない。ただイコを行かせたくない、一緒に居たいという気持ちで暴走し、村を抜け出し禁忌とされる北の山へ向かうのだ。

最初私はトトに批判的だった。どうしようもないことなのに、と。彼の行動はイコや村の人たちを困らせるだけなのに、と思った。

しかし彼の真心は物語を大きく動かしていく。物語が進むにつれて、トトをそうさせたのと同じ気持ちがイコを前に進ませているのだと思うようになった。城の塔に吊るされた鳥かごに囚われていた美少女ヨルダを救おうと奮闘するイコの思いは、ただただヨルダが哀れで彼女を救いたいという気持ち、それだけなのだ。

単純と言えば単純とも言える純な少年の行動が、この「霧の城」の秘密、世界の秘密を明らかにすることへとつながる。ここに一番感動した。

社会を変えるのはエラソーな分析や改革への理念なんかじゃなくて、理不尽への怒りでもない。ほんとうはただ一つ、まっとうな愛なんじゃないかと、そんなことを思った。

ぐんぐん引き込まれ、目の前に映像が躍動する読み応えのある本だった。

 

 

宮部みゆき『誰か somebody』の桃子が好き

 

 この杉村三郎シリーズを私は最新刊『昨日がなければ明日もない』から読み始めてしまった。宮部みゆきは刊行数が半端ないので、私にはその全貌が把握できないのだ。それで、書店で目についた本を買って帰るとこういうことになる。

だから私にとっては杉村は最初からバツイチだ。嫌いじゃない元妻と目の中に入れても痛くない小さな娘がいる、あまり流行らない探偵として彼と知り合ったわけだ。

離婚のいきさつはわからないが痛ましい感じで見ていた。で、第一作に戻って読み始めると、まだ離婚していない。はかないほど美しい妻と愛らしい桃子と幸せに暮らしているのだ。杉村に本を読んでもらう桃子、カラオケで歌う桃子。愛情いっぱいに育っているのにわがままじゃなく小利口でもない。子どもの可愛さを凝縮したような存在、それが桃子だ。離婚するらしい将来を思うと切なくてたまらない。彼の家庭が描かれるたびに心痛むのである。

そうやって心痛みつつ読んだ本文の感想は「梨子嫌い」というもの。

逆玉のようにして大企業の会長の娘と結婚した杉村は児童書の編集者を辞めてその今多コンツェルンの広報室に勤めることになった。それが結婚の条件だったのだ。会長の命により聡美と梨子ふたりの姉妹を助けてその父梶田の伝記を刊行する手伝いをすることになった杉村。しだいにあらわになるなる人間模様はけっして心地よいものではなかった。

一見平凡に見える人間の奥深さ、得体の知れなさが深く心に食い入ってくる。読ませる展開だ。どれだけ長くても、気に食わない登場人物がいても物語の吸引力に負けて読み進む私。でも梨子がもう少し感情移入できる性格だったら、もっと楽しく読めたのに。

両親に溺愛されて育った梨子は姉と競り合いわがままの限りを尽くす。大人になっても性格は変わらない。姉の聡美は聡美でやられほうだいでいることを矜持としているかのようだ。私はお人好しの杉村とは違うので、この手の美人姉妹に向ける視線は冷たいのである。

すべてがやわらかい「ヒルス ハワイコナブレンド」

f:id:tomatomaru4gou:20210806113243j:plain

イオンの棚でこれを見たとき、何か懐かしい気がした。

HILLSのロゴの左側で黄色い長衣を着てコーヒーを飲んでいるおっちゃんに見覚えがある。幼い日の、祖父の家の土間に漂っていた香りを思い出した。

祖父が飲んでいたのとは違うが、ハワイコナブレンドを購入。

祖父はいつもパーコレーターで淹れていた。丸い筒の缶に入ったヒルスのコーヒー缶を覚えている。パーコレーターの蓋の透明な部分にポコポコと煮立っていたコーヒーの色を覚えている。

子どもにコーヒーはだめということで、私が祖父の淹れてくれたコーヒーを飲むことはなかった。それだけに飲んでみたい気持ちは強く、「大きくなったら好きなだけコーヒーを飲みたい」というのが子ども時代の夢だった。

祖父はアメリカ合衆国へ出稼ぎに行ったことがあるので、コーヒーを飲む習慣はそこで覚えたのだろう。トマトのことを「トメト」と言ったり、炒り卵に玉ねぎが入っていたり、野菜スープがめっちゃおいしかったり、アメリカ生活の名残りがそこここにある祖父の生活だった。

祖父は20代で渡米し、その少し後祖母が単身祖父の元へ向かったらしい。祖母はまだ十代だったのではないか。

もう少し長生きしてくれたら、そんな話もいろいろ聞きたかったのに、祖母は早くに亡くなり、可愛がってくれた祖父も私が小学校低学年の間に亡くなってしまったのだった。

自転車の後ろに乗っけて畑へ連れて行ってくれたこともある。よその家の留守番を頼まれたときお供に連れて行ってくれたこともある。「これがおるとだいぶちがうで」

「これ」は私のことで、幼い私がけっこう話し相手になって楽しいと言ってくれたのだ。

「爽やかな酸味とやわらかなコク」と袋に記載されているが、ほんとにおいしい。香りも コクもほろ苦い味も、すべてがやわらかいコーヒーである。

 

 

 

ひろゆき『無敵の独学術』から工夫がだいじだと

 

3つのことを学んだ。

①ゴールをはっきりさせる

 独学は何かしたいことがあってからの学びだ。なんとなくこれやっとこうか、では計がゆかないし、どこへも行きつけない。

 勉強が好き、というより勉強している(格好の)自分が好きな私が目的なしに始めて失敗したもの。英語、ギリシャ語、書道、茶道、華道、着付け。これができたらカッコいいかな、くらいの気持ちで始めることは時間つぶしにしかならない。まして独学だといたずらに参考書やテープ(時代!)を買って積んでおくだけで終わってしまう。

 はっきりした目的があると、私の場合はむしろ独学のほうがうまく行く。私が成功したのはいくつかの「受験勉強」だった。試験という目標があれば頑張りやすい。

 この本を読んで、こういうことだったんだと人生の総括ができた。

②情報は古くなる

 ちまちまノートを取ってる場合じゃないということ。

 私はノートを取るのが好きでしかも熟読するタイプ。じっくり読むべき本もあるがそうでない本もあるのに分け隔てなく時間をかけて要約みたいなものを作っていた。

 著者の意図とは違うかもしれないけれど、必要なものを選び出すのにも「速さ」がだいじなのだと思う。そういう気づきを得た。

③「動画を単に切り抜くだけではなく、複数の動画から切り貼りしてひとつのテーマでくくったり、いちいち字幕を入れたりと、丁寧に付加価値をつける」というような工夫をするところがうまく行っている。うまく行っているところの真似をすればいい。

 いちばんハッとしたがこの部分。

 ほかのブログを見ても、おもしろいもの参考になるものには工夫がある。今はとにかく書いていくこと書き続けることが楽しいが、落ち着いたらいろんなブログのいい所を真似してみたいと思う。どうせ書くなら少しでも役に立つほうがいいから。