トマト丸 北へ!

本と映画、日々の雑感、そしてすべての気の弱い人たちへのエールを

旅は楽し『女・おとな旅ノート』

『女・おとな旅ノート』 堀川波著  幻冬舎

ずっと出かけられずにいたが、感染者も減ってきたみたいなので、浮かれて信州上田の戸倉上山田温泉へと繰り出した。

「清風園」、とてもいい旅館だった。ご飯がおいしい。特に米は最高だ。銘柄は忘れたが希少な地元でしか買えない米らしい。それを温泉水で炊く。空気がきれい。宿は千曲川のほとりに建っているのだ。温泉も透明で、もっちりとした湿潤感だ。かすかに硫黄の匂いがする。更衣室で好きなだけ温泉水が飲める。もちろん入浴前後に飲んだ。

そして、ライブラリがある。冊数は図書館ほどではないが、ちゃんと選ばれたおもしろそうな本や写真集と心地よいソファががワタクシを待っていた。持って行った本も読みたいし、ここの本もおもしろそうだし、忙しい。好きなだけ入浴して、好きなだけ散歩して、好き放題本を読む。天国以外の何物でもない。

その一冊がこの本。題名がイマイチだとは思ったが、手に取って良かった。

旅の本でワクワクさせるのは、「持ち物リスト」だ。絵入りだとわくわく感も高まる。

「室内履き・100均物干し・ガムテープ・財布3つ・ハサミ・小さめトート」など、次の旅行にはぜひ持って行こうと決意。

ハサミはうっかり手荷物に入れてしまってどこかの空港で取り上げられたことがある。その注意もちゃんと書いてあった。「ハサミは手荷物にいれないこと」。

「いくつになっても楽しいこと、好きなことをみつけたい」「感度のいい心を持つ」とある。すごく共感する。

また、「暮らすように旅する」という提案もいいと思った。

「キッチン付きのアパルトマン(!)・デリごはん・花を生ける・洗濯をする・公園のベンチにすわる・買ったものをすぐ着る」。考えただけでワクワクする。

「見つける」旅の提案も。

「スーパーマーケットハンター・窓の中の暮らしを想像する・違いを見つける・手仕事・葉っぱの形」など。「長靴下のピッピ」の「わたしは見つけ屋さん」というエピソードも懐かしかった。すぐさま、ワタクシも「見つけ屋さん」になろうと決意する。

目の付け所のヒントが楽しく詰まっている本だった。

何も海外へ出かけて行かなくとも、近所をちょっと歩いてもいいのだ。「ワンダー」の気持があれば、それは旅。

 

めっちゃ脚本おもしろい「テレビドラマ代表作選集 2008年版」日本脚本家連盟

芸術祭賞などに入選した傑作脚本集。

久しぶりに脚本を読んだが、すごくおもしろい。小説よりむしろ脚本の方が、生き生きと映像が浮かんでくる分伝わってくるものがある。キャストも載っているのでビートたけしなどのしぐさや表情が目に浮かび、実際にドラマを観ているみたい。

「点と線」

松本清張の作品の2007年版。松本清張の作品は数多く映像化されているが、どれも見ごたえがある。

脚本 竹山洋   主演(鳥飼重太郎) ビートたけし

ある意味王道を行くほんとうにドラマらしいドラマだ。いっこくな刑事鳥飼が地道に執念を燃やして犯人を追い詰める。不器用な、愚直な努力がしだいに周囲を巻き込んでいく。淡々と描かれているようでいて、仕事として取り組んでいた刑事たちを鬼の世界へと引き込んでいく迫力がすごい。

こころの深い所まで人を引き込むドラマに古いも新しいもないのだと思った。

「鬼太郎が見た玉砕~水木しげるの戦争~」

原作 水木しげる     脚本 西岡琢也

なんだろう。ワタクシにはちょっと消化できなかった。

このようにしか表現できなかったのだと思う。

反戦」とか「戦争はもう嫌です」「戦争をしてはいけません」とかいう言葉だけではくくれない戦争に思いを致させる。

たまたま「戦争を知らない子供」に生まれ、肉体的な暴力とは縁なく育ち、絵本の世界をほとんど現実と思って生きて来たワタクシに、この作品の咀嚼はむつかしい。でも、たぶん、「今」考えるべきなのだと思う。ひとりでも多くの人が世の中を良くすること、良く生きることを考えなければ大きな流れは変えられない。とうてい変えられないものだとしても、そうするべきだ。それはたぶん、威張りかえってマウンティングすることが生きがいの偉そうな人々にはできないことだ。しっかりと地道につつましく生きている人たちが最後は世の中を動かすのだと、信じたい。

「恋せども、愛せども」

原作 唯川恵     脚本 大石静

「祖母」と「母」が同時に結婚しようとしている。東京と金沢を舞台にして現代を生きる女性の人生の選択を描く作品だが、「年をとっても恋愛も結婚もできる」とか、「自分の気持に正直に生きればいい」とか、通り一遍の展開にはならない。向田邦子さんの作品を思わせるようなしっとりとした中にシニカルな視点を感じる。

しかし日本の作品って。今「セックスアンドザシティ」を毎日観ているのだが、比べるとなんとなくイリイリとしてしまう。職種は違っても、雪緒と理々子の働き方、上司に対するスタンスはいじましい。(恋人に対しても、なんだかな。)どうでパワハラされるにしても、「ここまで」と決めた覚悟が感じられない。これが「リアリティ」というものなのかな。

関係ないがワタクシがどの仕事もうまくいかなかったのも当然だ。理々子たちのような我慢は、ワタクシはできない。

わたしたちの教科書」ー第一話・第二話ー

脚本 坂元裕二

記憶にあたらしい「大豆田とわ子と三人の元夫」をはじめ、好きな作品の多い脚本家だが、これはちょっとあざといのではないかと思った。

珠子の明日香への仕打ちが、どうにもつらい。自分を頼ってくる幼いいじらしい人間をああまで拒否できるものか。明日香が死んでから行動を起こすのがどうにも手遅れ感が強すぎる。観る者の心の弓を極限まで引き絞ってからパッと放つと言ったらいいのだろうか。その引き絞る段階が辛すぎるのだ。

いじめられて死に至る人間は、直接いじめた相手にだけでなく、誰も彼もにいじめられ、世界中に見捨てられているということなのか。

二話までしか載っていなかった。これは最後まで読みたかったな。

「プラットホーム」

脚本 北阪昌人

あたたかく、人情味あふれるいい作品だった。ラジオドラマらしく、幻想と現実が入り混じって美しい。菜の花畑が目に浮かぶようだ。

ラジオドラマって、あまり聴かないけれど面白そうだ。時間も空間もふわっと飛び越える。映像がない分想像力の展開がはんぱない。そして、人生もいいな、捨てたもんじゃないと思わせてくれた。

 

 

眠れないときは起きる

今週のお題「眠れないときにすること」

いちおうお風呂に入り、暖かいミルクを飲み、常夜灯にしてお布団に入ります。

だいたい寝つきがいいと言うか、ふだんほとんど寝落ちする感じで意識を失うので、ここまでやっても眠れないということはめったにありません。

だめなときは早めに諦めて、ごそごそと起きだし、本を読んだり自分のことを始めます。で、眠くなったら、寝る。睡眠時間が短くなったとしても、明け方くっと眠ればすっきりします。

どうしても寝ようとしてラーメンを食べたりしていると却って眠れず、翌朝眠いだけでなくお腹が重く気分も悪く、自己嫌悪になるだけのようです。

最近読んだ本に、10時から午前2時のゴールデンタイムは眠っているようにするのが理想だけれど、寝付けなければ横になっているだけでも効果はある。後でごそごそ起きだしても、いったん横になったという事実があれば大丈夫、と書かれていた。理屈はわからないけれど、もしそうなら安心だ。

10時からの4時間の間に1回横になる。睡眠モードになればOKと考えています。後はもう、いろいろ心配せず、起きて好きなことをする。

いちばんいけないのは、「眠れない、眠らなければ、眠れない」とエンドレスのお経が続き、焦燥感で苦しむ何時間かを過ごすこと。まったく無駄だしストレス。

でも、それもこれもあたしがリタイヤしてのんびり過ごしているからこそできることで、仕事がある人はそうはいかないでしょう。

あまり面白いことは書けなかった。今日は早めに寝ちゃいます。

 

「漂着者」も最終回

TV朝日

企画・原作・脚本 秋元康

ヘミングウェイ(漂着者) 斎藤工

新谷詠美(新聞記者) 白石麻衣

ローゼン岸本(しあわせの鐘の家代表) 野間口徹

野間(刑事) 戸塚純貴

住職 リリー・フランキー

柴田(刑事) 生瀬勝久

古市琴音 シシド・カフカ

藤沼(総理大臣臨時代理) 峰村リエ

 

このドラマがよくて、斎藤工がよくてよくて、終わる前から「漂着者ロス」になっていたが、いよいよ終わってしまった。

ヘミングウェイと詠美の映像が流れるときの音楽がせつなくてすてきだった。「いまだけがあればいい」。詠美の表情に愛されている誇りとあてどない不安がないまぜになっていて美しかった。

ローゼン岸本や古市琴音、もう、ぴたりとあつらえたような配役だ。1400年間も語り伝えて「漂着者」を待ち続けた一族。でもこれって、私たちそのものではないのか。私たちの遺伝子ははずっと何かを伝えながら待ち続けているのではないか。そんな気がしてくる。

柴田と野間のコンビも良かった。柴田が刺されたときのセリフ、表情、ぞくっとした。

リリー・フランキーの気持ち悪さ、極悪さも。でも彼はほんとは何もしていないのではないかという気がしてしまう。それも含めてうまい。

で、藤沼総理大臣臨時代理。彼女が「もう戦闘は起こってるんだよ!」と政府高官たちを怒鳴りつけるのが超良かった。そして最後のシーンで白衣に身を包み、例の両手を羽のように合わせたポーズで微笑む気味悪さ!

伏線も回収されず、謎も謎のまま終わったと不満を述べている人もいたが、そうではないと思う。物語は真実を語るもので、事実を羅列するものではない。

ヘミングウェイが「詠美ともっと思い出を作っておきたかった」と言ったこと、詠美が「人が傍に居る、その存在自体が人々を救うのではないかしら」と言ったことがすべてだと思う。

ヘミングウェイは銃弾に倒れても死ななかったという展開だったが、彼は死んで、蘇ったのだ。蘇ったヘミングウェイは、違うヘミングウェイだ。

たとえば彼はもう、詠美を愛したヘミングウェイではない。「へミチャンネル」で予言や人々へ向けての言葉を発信した彼ではない。ずっと自分が何者であるか知らなかった彼だが、今、自ら予言者となることを告げる鐘を鳴らすのだ。

今まで謎の行動をしてきた人たちが白衣を着てヘミングウェイを見つめている。これも、象徴的な映像だ。彼が人々の心の中に生き始めたことを表しているのだ。

season2がすごく楽しみ。

 

 

「准教授・高槻彰良の推察」最終回、ベリーナイス

 

原作 津村御影 角川文庫

脚本 藤井清美 伊藤崇

 

小学生のとき訪れた山奥の村で不思議な盆踊りに迷い込んでしまった尚哉は「孤独」という呪いをかけられてしまった。三つの飴の中からべっこう飴を選んだからだ。その代わり尚哉は人が嘘をつく声を聞き分けるという「能力」を得た。

家族との間もうまくいかず学校でも孤立していた尚哉だったが、民俗学の教授高槻彰良の研究室に出入りするうちに、しだいに変わっていく。

高槻准教授役の伊野尾慧がとても良かった。どこか影のある怜悧な青年がはまり役だ。

助手の瑠衣子役の岡田結実も眼鏡がよく似合っていて良かった。この人、どんどん良くなる。可愛いだけじゃない。

最終回で尚哉が得た「僕がかけられたのは孤独と言う呪い(のろい)ではなく、本当に大切な人を見つける呪い(まじない)なのだ」という解釈、おもしろかった。

孤立している場面はあっても、孤独でなければいいのだ。同じ「呪」という字でも解釈の仕方によりおどろおどろしい「のろい」とも、災いを防ぐ「まじない」ともとれる。同じ現象でも、解釈する人しだいだ。

なぞときがソフトで淡々としていて、ゆるーく見れる。伊野尾慧の高槻教授が怪奇現象と私たちの間をやんわりとへだて、モノの見方をやさしく転換してくれる。週末の夜に良い作品だった。すじを追ったり、やたらと感動するわけでもない、まったりと観れるこのドラマが好きだった。

 

さくらももこ『ひとりずもう』を読み、ももこさんの青春ににっこり

 

子ども時代からのことが書かれているが、漫画家になるまでの「青春記」と言っていいだろう。

これを読むと、さくらももこさんが単なるおもしろおかしい人ではなく、芯が強く自分をしっかり持っている人だということがわかる。そしてなんだかんだ言っても愛情いっぱいに育てられ、周りの人材にも恵まれていたのだ。飾らず正直でまっとうな考えと行動は欠落ではなく豊かさから出来ている。

ちびまる子ちゃん」という作品がどのようにして生まれたのか、なぜあんなに共感を呼ぶ漫画になったのか、分かった気がする。いろんな意味で、すぐれた作品は裾野が広いのだ。まさに富士山である。

漫画家になるという夢をなぜか知っていた高校の担任教師、「現代の清少納言」とまで褒めたたえ彼女の才能を見抜いた先生もすばらしいと思う。彼女は「持っている」のだ。

お母さんから見れば「何もせず、寝てばかり」いた高校時代の後半、彼女は自分の夢を追うことに専念していた。

入試の論文のために書いた文章を絶賛された午後、水を浴びた「風呂場の窓が、昼の光で輝いていた。」「私は、漫画家になりたい。小さいころからそう思っていたのだ。絵も好きだし、文章も好きだ。それ以外の事は全部苦手だ。そんな事、最初っからわかっていたのに、私は何を迷っていたんだろう。」

ここまで読むと、さくらももこが成功したこと、でももう亡くなっていることを知っているのに、がんばって!とエールを送りたくなる。そういう温かい明るい本なのだ。

たぶん、世の中に何人かはこのような瞬間を持つことのできる人がいる。「それ」を見つけて手放さなければ、人生はおおむね成功なのだと思う。どこまで行けるかはともかくとして、道はけっこう開かれているのかもしれない。それぞれの持って生まれたもの、手にしているパイは違うけれど、いくつになっても始められるしそれなりにがんばりそれなりに楽しめると思う。

ももこ、がんばれ!!!

池田晶子『残酷人生論』を読む

 

この表題の「残酷」の意味はよくわからない。あまりこだわらなくていいのかなと思うことにしよう。

この本を読んで考えたことはこの3つだ。

①社会と存在

 「人間は社会的存在である」「人はひとりでは生きていけない」

 よく言われることだが、はたしてそうなのか。

 「生存は社会に依存するかもしれないが、存在が社会に依存するわけではない。」

 「私は、社会生活を営むために生きているのではなく、生きるために社会生活を営んでいるにすぎない」

 この順番はだいじだと思う。

 うちの親は私が言うことをきかないと、「外へ出なさい」と言っていた。幼い私にとってそれがどんなに恐ろしかったか。しかし実は大人になってからも、自分が属する「社会」から追い出されることがほんとに怖かった。社会の規範というものがあやふやであるとは知らなかったし、レールから外れると何か恐ろしいことが起こると思い込んでいた。

 実はレールから外れてもけっこう生きていけることを最近になってやっと実感できた。というより、無理やりレールから外れないようにしていると社会から殺されることもあるのだ。自分が「社会」を絶対の存在と捉えていても、社会のほうでは私と言う個人などどうでもいいのだ。

 「私は社会の存在なんてものを、この自分の存在よりも確実なものだと認めていない。認めていないのだから、社会の存在が私の存在をどうこうできる道理もない。じつに自由である」

 ああ、そうなんだ。じっくりと考えればわかることだったのだ。私は、腑に落ちた。今は、じつに自由である。

②倫理と道徳の違い

 「なぜ人を殺してはいけないのかと問う我々は、人を殺してはいけないと、問う以前から知っている。これは もはや規則ではない」

  なぜ人は人を殺さないのかというと、法律で決まっているからでもなく、社会的制裁を受けるからでもなく、なによりもまず「殺すことが嫌だ」からだと思う。理屈ではない。著者はそれを「倫理的直観」と名付けている。

「倫理とは自由である。そして道徳とは強制である」

 もちろんみなが同じ「倫理的直観」を持っているわけではない。

「私は、悪いことはしたくないからしないのだが、多くの人は、悪いことはしてはいけないからしないらしいのだ」

  ある本に、心理学の実験の結果、「いじめた人のほうがいじめられた人より人生の満足度が高い」と分かったと書かれていた。これはどういうことか。その本の著者は「やり切れないことだけれどもこれが現実」だと書いていた。

  どういうやり方で実験したのかが疑問だし、そもそもその実験の正当性客観性もわからない。

  実験そのものについてはだから言及できないが、「人生の満足度が高い」とはどういうことなのか。「自分はいじめをした」という記憶を持ちながら、「いい人生だった」と思えるとしたら、その人はどんな人なのだろうか。何に対して「満足」しているのだろうか。

 「いじめ」という抽象的なことではなく、具体的に「他人を殴打したことがある」とか「幼いものをいたぶったことがある」という案件だと考えたらどうだろう。それは「いじめ」とは違うというひとは、「いじめなんか大したことじゃない」「逮捕されたり罰せられたりしなければいいのだ」とみなしていることになる。

  これは人生に対する満足度の問題ではなく、その人の倫理観の問題だ。

  「他人を殴打したことがありますが」「幼児を虐待したことはありますが」私は自分の人生におおむね満足しています」と答える人について、何が言えるだろう。

  「何をもって”満足”というのか」という問題はやはり残る。

  この実験でわかるのは、世の中には「倫理的直観」を持たない人もいるということだ。それは、実験しなくてもわかっているはずのことである。

  自分がしあわせに生きるために必要なのは「道徳」か「倫理」か。あたしに限って言えばそれも自明のことである。自明でなくても、考えてはっきりさせることはできる。

  「なぜそうなのかはわからないが、明らかにそうでしかあり得ないそれ、それが『その人』という魂なのである」

(「あたしはいい人です」と言ってるように聞こえるかもしれないが、そうなのだ。少なくとも「善くありたい」と思っている。)

③幸福な魂

 「幸福な魂は金満であれ清貧であれ、幸福だろう。不幸な魂は、金満であれ清貧であれ、不幸だろう」

 「他人と比べて不幸、他人と比べて幸福、そのようでしか幸福であり得ない、これは不幸なことである」

 幸福とは「魂の構え」だと著者は書いている。

 「なぜ人は、自分で幸福であろうとはしないのだろうか。自分以外のいったい誰が、幸福であることができるのだろうか」

 「善くなる努力をしない人は不幸なのである。幸福とは善い魂のことである。善い魂であるということが、幸福であるということだ。善くなるために努力している魂もまた幸福である」

 幸福な人は何を為すか。

 「才能の人は才能を為し、凡庸の人は凡庸を為し、各々自分の職分と持ち分において為すべきことを為し、とくに何を為すというわけではないだろう」

 そうなんだよね。いつでも、どこでも、誰でもすぐ(かどうかはわからないが)幸福であることができるのだ。

 「自分が居て、宇宙があるということは、なんと神秘か、不思議なことかと、普通に感じられてさえいるなら、答えはそこに尽きているのだ」

 

 この本の内容をちゃんと理解しているかどうかはあやしいが、こんな形であたしは「腑に落ちた」。