トマト丸 北へ!

本と映画、日々の雑感、そしてすべての気の弱い人たちへのエールを

山本健一『利休にたずねよ』をオーディオブックで聴いた感想ー高麗から来た女の魅力

この作品を映画でも観た。

海老蔵の利休ははまり役だしいい映画だったが、利休の心に食い込んで離れなかった高麗の女がやはりちょっと残念だった。坐った形などほんとうに美しいのだが、原作のイメージとは違うという気がした。超然としているはずがにらみつけているように見えてしまうし、捉われてもなお屈しない姿がただ嫌がっているように見えた。

高貴な女性だ。政争に巻き込まれ、貴族の身分でしかも宮中へ上がることになっていたにもかかわらず、さらわれて売られた女だ。囚われの身となり異国である日本へ連れて来られた。それでも毅然とし気品を失わない。

このイメージを生身の女性が具現するのはほんとうにむつかしいと思う。利休が救おうとして果たせず自ら殺した女だ。利休は年老いて非業の死を受け入れざるをえなくなってもなお心の中に大切にその面影を抱いていた。年月を経ると共に彼の心中でますます気高く美しくなっていったのだ。

これは演出や女優さんの問題ではなく、実写の限界だと思う。本を読んで得たイメージと映像が異なるのはあたりまえだ。

言いたいのは、それほどこの物語の高麗の女は魅力的だということだ。彼女はその生き方で、一期一会を利休に知らしめたのだと思う。利休が生涯胸に抱き続けた彼女への憧憬は、彼が追い求めた美へのそれに他ならない。茶道の美学を象徴するものだ。

利休切腹の日から日を繰ってだんだんと遡り、高麗の女のなぞが少しずつ明らかになるという構成がとても良かった。この物語を聴いて私の心に残ったのも、高麗の女の毅然とした美しい姿だった。

夕暮れに紛れてしぼもうとしている木槿の花のように淡かった姿がしだいにひと塗りひと塗りされて際立っていき、最後にそのあでやかな姿がくっきりと読者の目前に立ち現れる。何があろうと膝を立て背筋を伸ばして高雅に座る彼女の姿は利休の心に食い入ったと同じように読者の心にもしるく刻まれるのだ。

高麗の女の謎と同時に利休の茶道の真髄、秀吉との確執も浮かび上がってくるわけだが、もちろんそれらは根のところでつながっており不可分である。

物語全体が悲劇であり、高麗の女の運命もまた悲劇である。

見方によってはこれほど惨めな境遇もないと思う。それでも彼女は自分を保ち続けた。利休の他の女たちは彼に頼り、彼の意にかなうことを生きるすべとしてきた。高麗の女の不羈の姿とは根本的に異なる。王者秀吉についに膝を屈することなく、あくまでも自分の美学に忠実に生きた利休の姿は、高麗の女の生き方に通じるものがある。有為転変など関係ない人の尊さ。利休の目を通してこの女を描き切ったことがこの本の値打ちだと思う。

牧師ミツコ『74歳、ないのはお金だけ あとは全部そろってる』(すばる舎)が心なごむ

 宗教に対してどうも懐疑的になってしまう私だが、この本を読んで心和んだ。この人の生き方がすてきで、信仰というハードルを乗り越えることができるならプロテスタントの教会へ通いたいくらいだ。

P167 街をひとりで歩くのが楽しみ

 「こんなとき、私はひとりで行きます。誰にも気を使わずに好きなだけ本を眺め、好きな道を歩きます。」

 これと、お昼寝が好きというところが私と同じで親近感を感じる。

p161 71歳からプール通い

 「かなづちを克服しようと公営のプールに通いました。」

 とても共感した。70歳くらいから新しいことを始めるというの、ほんとにいいと思う。頑固に固まったりしないしなやかな精神を感じる。私も、もう2~3年したら、何か新しいことを始めたいと思う。

p156 「いろいろな人と関りを持ったほうがいい」

 教会を中心とした彼女の人間関係はとても豊かだ。週2回は説教もし、教会での集まりに参加して、心配事を持ち込む人の話を聴いたりもしている。

 質素に暮らしてはいてもけっしてケチではなく、娘たちとの週一回の会食に食事を作って持参したり、教会へ来れなくなった高齢者を見舞ったりしている。「人のために少額でもお金を使う」とし、お世話になった人にお返しも忘れない。食事をふるまったりもする。その反面、孫たちにはお小遣いをあげないという姿勢。とても潔い。

 筆者は現在公営のアパートに一人暮らしだが、自立しつつも他者との関りを大切にしているのだ。これは私のはるかおよばないところで、素直に反省したいと思う。うらやましくもある。

 思ったのは、私と違って寄りかかろうとしないから豊かなのではないかということだ。娘たちとももたれ合わない関係だ。助け合いなどを、もう少し広い範囲で考えておられるのだと思う。

 私は、甘えられないからいっそ一人でいよう、煩わしいから離れようと、この人に比べるとけち臭い。ボランティアなどについても考えさせられた。

 残りの人生、70代からは「人とかかわる」ことも試みてみたいと思った。

 「苦しかったこと」として40代のころの夫婦の不和のことが書かれている。また、「常に相手に対して一歩引く」けれども「我慢はしません」とし、「相手との関係は常に対等でありたい」とも書かれていて、すごく正直な人だと思った。「私の中にも、人よりも上に行きたい という気持ちが根本的にあるのです」と述べたり、すばらしい夫でした、などと無理に理想化しないところが逆に魅力的なのだ。この人はほんものだと思う。

p158の「できるだけ集中した結果、よいことがあったというエピソード」は、ほんとうにすてきだ。心が純粋できれいなのだと思った。

 こういう人が生きているといことを知るだけで心がなごむ。

ちきりん『自分の意見で生きていこう』を読むーこの不確実な世界でつぶされないためには「意見を持つ」ことが必要だ

『自分の意見で生きていこう』 ちきりん  ダイヤモンド社

3つのきづき

①人生における大切な問題にはどれも唯一の正しい解答などない

 この不条理不確実な人生における正解のない大事な問題について自分の意見を明確にできなければ、自分のオリジナルの人生を作っていくことができない。

 ここのところで私は考え違いをしていたと思う。「正しい解答などない」という点まではちきりんと同じ考えだった。絶対ということなどないと思った。その先を間違えてた。「言い切る」ことを恐れ、あらゆる問題についてニュートラルであろうとし、あらゆる問題を先送りにしてしまったのだ。正解の無い世界で唯一の正しい答えは「解答しないこと」だと思ってしまった。間違わないためには回答しないこと、何もしないことだと。

 こんな腰の引けた人生がひとつの実りももたらさなかったのは言うまでもない。間違うことが怖いから何もしないというのでは。行動を迫られて追い詰められるまで何もせず、ぎりぎりになってから世の風潮に流されるというのが私の人生だった。結果が出ることが怖くて行動できなかった。

 また、そういう環境でもあった。何かをすることよりも我慢することの方が正しいと言われて育ってきたのだ。もちろん、こうまで不甲斐ない生き方を他人のせいにすることはできないけれど。

 こういう風にのんびりやっててうまく行く人もいるかもしれない。流れに任せてOKと言うケースも。でも私はそうではなかった。うまく行かなかった。

 今思うと、うまく行かなくて良かった。遅くはなったが、否応なしに自分と向き合うことになったからだ。あちらでもこちらでも頭をぶつけたり、ぶたれたりしてきたけれど、やっと、ようやく、自分というものを見つめる気になれた。そういうときにこの本と出合った。実にタイムリーだった。

②(うまく主張できないとき)足りないのは言語能力や表現の力ではなく思考そのものである場合が多い。

 <こんなときにはこう言い返そう>というような<話し方、主張の仕方>の解説を目にすることがあるが、書かれているフレーズをそのままに言い返したとしてもほとんどうまく行かない。言葉をなぞるだけではさらに言い返されるのがおちだ。

 P74に「どんな意見なのかということより、それは本当に自分の意見なのか? が大切なことだ」とある。

 考えた末の自分の意見だったら、それが腹から出た言葉であれば、インパクトがあるし一歩も退かないでいられるだろう。(しかし借り物の意見やただの思い付きでも強く主張する人もいるからインパクトだけでは信用できない。その場合は勢いに惑わされないで少し掘ってみることが必要だ。)

③反応と反論の違い

 ここの部分、ほんとうにおもしろかった。読んで初めて気づいたことだが、「あるある」である。

 反応と反論の違いは「ポジションをとっているかどうか」にある。

 P197「意見なのか反応なのかを見分ける基準は、その発言により『発言者のポジション=立ち位置が明確になっているかどうか」です。

 「一概には言えない」「例外もある」などともっともらしく言う人、ほんとに多い。また、残念なことにそういう人が前向きな意見をつぶしてしまう場合も多い。この本に書かれているとおりで、それがどんな意見であったとしても会話として成り立ってしまうのが「一概には言えないでしょう」などの反応だ。この下りにはちょっと笑えた。

これからの行動のヒントになったこと

⑴よく考える

 あらゆる問題について、よく考えようと思う。「今現在差し迫ってはいないことについて考えることが大切」なのだとも書かれていた。はっとした。

⑵ただすなおに自分の「こう思う」を言葉にすればよい

「『個』としての自分を認めさせるためには、あなたと他の人を区別するための情報を提供すること」が必要だと書かれている。

 私が今までどこのグループからも仲間として認められなかったのは、ひとつには自分の情報を他人に与えまいとしてがんばったせいもあるのかもしれない。個人的なことを聞かれるのが苦手だ。たいていの場合マイノリティである自分の意見を表明するのが怖い。ずかずかと人のプライバシーに踏み込んでくる人の言いなりになる必要はむろんないが、アルマジロのように固まってしまう私もよくなかった。

 自己開示ができない理由は開示するべき自己がはっきりしないからかも。何についてもしっかりと考えてはいなかった。

 意見を言うことや自己開示を恐れる気持ちの後ろには恐れがある。意見が違うのはあたりまえ、他人と自分が違うのはあたりまえなのに、違うことによって居場所を失うような気がしていた。育った家庭とか所属した集団とか、違うものは排斥するというシステムの場所にずっと居て過剰適応してしまった側面もある。

 でもアルマジロになっていても結局仲間には入れず気味悪がられるだけだった気がする。ほんとうの自分を分かってくれる人も現れない。現れようがない。もし気の合う人がいたとしても互いにそれとわからないわけだから。

⑶「自分の意見の束」によって自分という人間がどのような人間かを自分で理解する

 自我の確立 ➡ 肯定 ➡ 開示 ➡ 外部からも承認をもらう 

 この一連のステップを踏んでみようと思う。おもしろそうだ。そして私には失うものもない。自分を失ってまでしがみつかなければならない集団など無い。今の日本は外れ者でも生存できる。

 私って、どんな人間か、自分で実はよくわかっていない気がする。いろいろなことに対して自分の「意見」を明らかにしていくことによって、自分という人間がわかってくるかもしれないと思うとわくわくもする。

 また、ひとつひとつの事案を考え尽くすことによって行動も変わってくるかもしれないという期待もある。自分の中で確信が持てないから行動がブレてしまうのかもしれない。

P175 「まずは自分の意見を明確にすることにより、自分で自分をしっかり理解する。それがすべての始まりなのだということを忘れないでください。」

 こんなふうにブログを書いているのも、無意識のうちに「自己肯定感」を得ようという願いがそうさせているのかもしれない。

 ブログサービスがあってよかった。書くことがあってよかった。

ドストエフスキー短編『クリスマスと結婚式』をオーディオブックで聴くー世界に悲劇は絶えない

『クリスマスと結婚式』 ドストエフスキー 米川正夫訳  オーディオブック

 「無名氏の手記より」とある。

 語り手の無名氏は、とある結婚式と行き合う。彼は5年前の出来事を思い出す。

 5年前、語り手は大みそかの夜に子供の舞踏会に招かれた。子どもの会というのは口実で、実際には親たちがさまざまな思惑の伴った雑談をするのが目的のようだった。子どもたちのクリスマスプレゼントもそれぞれの境遇、主催者の思惑によりはっきりと差別されたものだった。

 主催者の家庭教師の息子は一番最後に挿絵もない薄っぺらな本をもらった。ある少女は美しい人形をもらった。その少女は裕福な実業家の娘で、その年でもう30万ルーブリの持参金を約束されているのだった。

 貧しい少年と富裕な家に生まれた少女は気が合い、人気のない部屋で人形で遊んだ。

 この会の主賓はユリアン・マスターコヴィッチという実力者だったが、5年はたたないと結婚年齢に達しないこの少女に、数年後には利息がついて50万ルーブリにはなるであろうその持参金ゆえに興味を持ち、話しかけるのだった。彼は邪魔をするなと言って少女の側にいた貧しい少年を追い払おうとさえするのである。

 その後少女の両親がこのユリアン・マスターコヴィッチにすり寄ってお世辞を使う様子が語られる。

 ネタバレになるが、語り手が見た結婚式はその子供の舞踏会から5年後の、あの少女とユリアン・マスターコヴィッチのものだったのだ。花嫁は明らかに泣きはらした目をしていた。

 なんともやりきれない話だ。この「無名氏」もいきどおるでもなく、少女に同情するでもない。舞踏会の夜ユリアン・マスターコヴィッチが貧しい少年に酷い扱いをしたのを目撃してもただ隠れて見ているだけなのだ。結婚式についても、最初には「立派なもので気に入った」と言い、花婿がユリアン・マスターコヴィッチだと分かったときの感想は「それにしても胸算用があざやかにいったものだな!」なのである。

 語り手はユリアン・マスターコヴィッチを皮肉りあざ笑うが、貧しい少年や悲劇の花嫁に同情する言葉はないのである。この話を書いたこと自体が世俗への批判なのだろう。でも物足りない気がする。

 これが世の中。こういうこと、今までもこれからもたくさんあるのかも。結婚とまではいかなくても金と権力が結びつき人間の優しい気持が踏みにじられることは。

 ひとつ、オーディオブックの欠点に気づいた。読み返すのがむつかしい。ぱらぱらとめくって人物の名前や込み入ったいきさつを確認したりはできない。ロシア語の名前は覚えにくいのだ。

オーディオブック『年収1億円になる人の習慣』山下誠司著で覚醒?!

自分よりずっと若い著者の本を読むのが楽しい。とても勉強になる。人間はどんどん進歩しているのだという気分になれる。

この本も良かった。フェラーリに乗りたくて、かっこよくなりたくて、億万長者になりたくて、そういう自分の欲望に忠実に、誇りを持って進んで行った若者の物語。吹っ切れれば欲望は人を高めてくれる、そんな話だ。

参考になったこと三つ。

①時間とお金は目的につながることにのみ用いる。

 目的がはっきりしていなければできないことだ。でも、この覚悟は必要だと思った。

 このままでのんびり行きたいと思っている人はそれでいいと思うけれど、目指すところがある人は、取り入れるべきだ。人生は短い。

②最初の10年間は休まない。ほんとにそのことが楽しくてやりたいことなら、それに集中するべきだ。

 毎日が仕事、毎日が夏休み好きなことをやってればそうなのだと思う。著者はほんとに仕事が好きなのだと思った。いや、そこまでやるから好きになったのかもしれない。

 「休みは無い。ローギアとハイギアがあるだけ」。ギアチェンジはやっぱり必要なのだろう。

 それと「休まないから仕事が楽しい」というのも腑に落ちた。やりこまなければほんとうの楽しさはわからないということだと思う。

③質よりスピード

 「一流ではスライディング意外は遅刻」という言葉が印象に残った。

 私など、とりかかりが遅くて人生淀んでしまっている。失敗が怖いからだ。モラトリアム人間だ。それじゃだめなんだ。失敗するまいとして人生、取りこぼしまくってきた気がする。

 「行動が先」「期限を決め、量をこなすと質の向上につながる。」(この順番がだいじ)」という言葉も心に響いた。

 特に私にとっては「期限を決める」ことがだいじだ。

生活に取り入れたこと三つ

⑴締め切り一週間前(少なくとも3日前)に提出する

 作品は途中で終わり、数作しか完成していない。何一つ応募していない。俳句も締め切りぎりぎりに投句して迷惑をかける。間に合わないことも多い。「ぎりぎりまで考える」のが良いと思っていた。しかし実際はぎりぎりに取り掛かるのが癖になっているだけだ。精神衛生上も良くない。フライングくらいのロケットスタートに切り替えようと思う。

⑵休まない

 毎日が夏休みだからこそ意識して休むことが必要だと思っていたが、完全に休むのではなく、特にだいじなことについては必ず一歩か二歩は前進しておくことにした。休み明けにゼロからスタートせずに済む。と言うか、完全に休んでしまうと実際にはマイナスからのスタートになってしまうと気づいた。

⑶人の悪口を言わない。聞かない。

 これを決めてすぐ、ネットに嫌な記事が上がった。ある役者の関係者がその人を貶める書き込みをしているというもの。今までの私だったら、好奇心で内容を調べてしまってさらに嫌な気持ちになっていただろう。怖いもの見たさと言うが、「嫌な物見たさ」ということが私にはある。

 でも、決めていたので検索しなかった。気分が悪くならなくて良かったし、時間も無駄にしなかった。

 悪口を言うのはその真偽に関わらずそれを言う人の人格を貶める行為だとも思った。その関係者のタレントはたぶん嫌われる。痛ましいとも感じた。とにかく私は、もうそういうことからは離れる。そう決めた。

 すごく元気が出る本だ。この本はオーディオブックで「聴き放題」だった。聞き放題リストで見なかったら読まなかったかもしれない。「聴く生活」、楽しくていい。

 もう年だからって年寄同士つるんで消化試合のような時間をだらだら過ごしている人たちもいるけれど、(誰かの言いなりになって従い「仲間がいる」という安心感に浸って)心の中ではマウンティング合戦をしてる人たちの仲間に入るのは嫌だ。年収1億円は20代から始めなければ無理だろうけれど、老い先短いからこそ時間は貴重だ。私の場合、目的に向かって進むことが楽しい。ただ今までは臆病で腰が引けていたから成果が上がらなかった。この本は結果を出すこととそういう人生の楽しみ方を教えてくれる本だ。がんがん読んで、書いて、楽しんで生活できればいいと思っている。だらだら過ごしていては楽しさが逃げるのだ。

 この本で覚醒したと言ってもいいと思う。

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感想・オーディオブックで聴く『野菊の墓』(伊藤左千夫著)~泣ける!

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オーディオブックで聴いた『野菊の墓』。

結末の部分で泣いてしまった。「民さん」が哀れで哀れで。

以前読んだことがあると思うのだが、記憶とたいぶ違っていた。「民さん」のイメージをか弱く可憐なだけだと思っていたのだが、気が弱いにしても品位のある快活な娘だと分かった。愛されて育ち、自分の意思も持っている。

民さんのイメージが変わったのは良かった。

おぼろげな記憶に終わらせず、読み直してみるのはいいことだ。オーディオブックで聴くのも良かった。散歩の時間、歩みの遅い老犬にイライラせずにすむし、時間を有効に使える、聴く楽しさもある。自分で読むとどうかすれば読み飛ばしてしまう部分もしっかりと耳に入る。

オーディオブックで聴くことの欠点は、語り手の読み方によって「読み」がかなり限定されてしまうことだ。聞きやすくするためにわざとだと思うが、細かく切って読む。その切るところが私の読み方と違うのである。じかに本を読めば100%自由に読めるのだが、聴いているとここは違うなと思ってしまうところがどうしても出てくるのだ。どうしても朗読者の解釈したものを聞かされているという違和感が残る。翻訳されたものを読む場合にもこういうことはあるのかもしれない。

しかし総合的に考えてオーディオブックを導入したのは正解だった。本来なら読めない量の読書が楽しめる。

野菊の墓』もとても良かった。

民さんのイメージがより正確な生き生きとしたものとなった。茄子をもぐシーンや、山の棉畑のシーンなど、二人の思い出も目に浮かぶようだった。

しかし時代の制約と言うのか、登場人物がみな良い人たちであるものの、というかそれなのに民さんが不幸になったのがどうにも残念だ。悪い奴がいたのなら仕方ないのだが、みな基本的に善人で民を愛していたのに、どうして好きでもない人のところへ嫁にやるのか。どうしてもう少し待ってあげなかったのか。政夫との結婚を認めなかったのか。殊に政夫の母親は当時としては破格なくらいやさしい良い人なのに、政夫も民も二人ながらに非常に愛していたのに、どうして二人の仲を裂いたのかと思う。後で自分を責めさいなむ彼女もまた非常に気の毒だ。

腹立つのは結びの部分。政夫が「余儀なく結婚させられた」民を忘れずにしのぶのはいいのだが、自分もまた「余儀なく結婚して永らえている」と述懐しているのが許せない。今結婚している妻の立場がないでしょう。誠実とは言えないでしょう。そんなふうだから民に「僕は民さんの思うとおりにします」とか言う手紙を与えながら中学に進学して以降民が死ぬまで一度も会いに行かないという不義理をしてしまうのだ。「恥ずかしい」とか「きまりが悪い」とか、言い訳にならない。

「僕たちの間には何もなかった」と純愛を標榜しているけれど、あの手紙はどうだろう。民の恋心はあの手紙で決定的になったに相違ない。あの手紙がなければ民だってきっぱりと新生活に入れたのだ。純粋な乙女にとっては実際に関係を持つ以上のインパクトを持つ手紙だ。「僕は民さんを思うだけで幸せだった」と自己完結しているが、相手のことをちっとも思いやらないなんて、信じられない。民が針の筵に座ってどういう明け暮れを送っているのか、考えないのだろうか。

最後の「余儀なく結婚」の一行だけはぜひ割愛してほしい。

 

 

感想・小野不由美『風の万里 黎明の空』十二国記 上下 新潮文庫

『月の影 影の海』に続いて陽子が出てくる。

鈴、祥瓊、陽子と私の十二国記4大ヒロインのうち三人が登場する。(4人目はもちろん『図南の翼』の珠晶)

貧しい家に生まれた鈴は12歳で売られた。売られる先はガス灯がまたたき鉄道馬車が走る東京だった。人買いの男に連れられての旅の途中崖から転落し、気が付いたとき鈴は虚海に浮かぶ船の上にいた。

祥瓊は十二国のひとつ芳の公主(王の娘)だった。彼女がこの物語に登場する場面は父王が弑され、母もまた首をはねられるという凄惨なシーンだ。父王の施政があまり苛烈であったため討たれたのだ。

鈴は言葉もわからぬ異界にほうりだされ、苦しみの果てに才州国の凌雲山の翠微洞に住む梨耀の下で働くことになる。仙籍を得れば言葉が通じるようになるという点にひかれたのだ。しかし梨耀はわがままで苛烈な人使いをする女だった。鈴は梨耀のいじめのターゲットになってしまう。他の人間関係にもなじめない。

祥瓊は仙籍も身分も失い、恵州のはずれにある里家という施設で暮らすことになった。そこの管理をする女性に公主であったことを知られ、父王に息子を殺されたその女性から壮絶ないじめを受ける。

鈴と祥瓊はさまざま苦難を経て成長するのだが、その途上で景王である陽子に会いたいと願うようになる。鈴は同じ倭国からこの異界へやってきた陽子なら自分の苦しみを理解してくれると信じた。祥瓊は陽子が自分の失ったすべてを手に入れて得意になっていると思い込み、同じ苦しみを味合わせたいと願った。

その陽子は慶の新王として登極したもののこの国の言葉すらわからず、読み書きから学ばなければならない有様。倭国生まれの陽子はこの異界の仕組みや風俗習慣国情すべてにうとく、なかなか臣下の信頼を得られないでいた。その上慶では女王による失政が二代も続いてしまっており、そもそも女王に対する不信感があったのだ。信頼できる臣下も数えるほどしかいない。

陽子が殊に悩んでいたのは初勅をどうするか。「勅」は他の法令とは異なり王自らが作成し宣下するものだ。陽子は初めて下す勅令をただ無難であるだけのものにしたくなかった。これからどういう国を作るのかを端的に示すものにしたいと強く思っていた。

悩んだ陽子はついに身分を隠して旅に出る。国と民の実情を知らなければ何も決められないと決心したのだ。

鈴、祥瓊、陽子の三人が出会うとき、慶国の未来にも新しい希望が見えてくる。そして陽子の宣下した初勅は?

p388からの結びの場面は陽子の面目躍如。めっちゃクールだ。

「人は誰の奴隷でもない。そんなことのために生まれるのじゃない。他者に虐げられても屈することのない心、災厄に襲われても挫けることのない心、不正があれば糺すことを恐れず、けだものに媚びず、ーーー私は慶の民にそんな不羈の民になってほしい。己という領土を治める唯一無二の君主に。そのためにまず、他者の前で毅然と首(こうべ)をあげることから始めてほしい」

この言葉、私の心に刻んだ。「人に頭を下げるたびに、壊れていくもの」があるという陽子の言葉も、ほんとうだと思う。

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