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ドストエフスキー短編『クリスマスと結婚式』をオーディオブックで聴くー世界に悲劇は絶えない

『クリスマスと結婚式』 ドストエフスキー 米川正夫訳  オーディオブック

 「無名氏の手記より」とある。

 語り手の無名氏は、とある結婚式と行き合う。彼は5年前の出来事を思い出す。

 5年前、語り手は大みそかの夜に子供の舞踏会に招かれた。子どもの会というのは口実で、実際には親たちがさまざまな思惑の伴った雑談をするのが目的のようだった。子どもたちのクリスマスプレゼントもそれぞれの境遇、主催者の思惑によりはっきりと差別されたものだった。

 主催者の家庭教師の息子は一番最後に挿絵もない薄っぺらな本をもらった。ある少女は美しい人形をもらった。その少女は裕福な実業家の娘で、その年でもう30万ルーブリの持参金を約束されているのだった。

 貧しい少年と富裕な家に生まれた少女は気が合い、人気のない部屋で人形で遊んだ。

 この会の主賓はユリアン・マスターコヴィッチという実力者だったが、5年はたたないと結婚年齢に達しないこの少女に、数年後には利息がついて50万ルーブリにはなるであろうその持参金ゆえに興味を持ち、話しかけるのだった。彼は邪魔をするなと言って少女の側にいた貧しい少年を追い払おうとさえするのである。

 その後少女の両親がこのユリアン・マスターコヴィッチにすり寄ってお世辞を使う様子が語られる。

 ネタバレになるが、語り手が見た結婚式はその子供の舞踏会から5年後の、あの少女とユリアン・マスターコヴィッチのものだったのだ。花嫁は明らかに泣きはらした目をしていた。

 なんともやりきれない話だ。この「無名氏」もいきどおるでもなく、少女に同情するでもない。舞踏会の夜ユリアン・マスターコヴィッチが貧しい少年に酷い扱いをしたのを目撃してもただ隠れて見ているだけなのだ。結婚式についても、最初には「立派なもので気に入った」と言い、花婿がユリアン・マスターコヴィッチだと分かったときの感想は「それにしても胸算用があざやかにいったものだな!」なのである。

 語り手はユリアン・マスターコヴィッチを皮肉りあざ笑うが、貧しい少年や悲劇の花嫁に同情する言葉はないのである。この話を書いたこと自体が世俗への批判なのだろう。でも物足りない気がする。

 これが世の中。こういうこと、今までもこれからもたくさんあるのかも。結婚とまではいかなくても金と権力が結びつき人間の優しい気持が踏みにじられることは。

 ひとつ、オーディオブックの欠点に気づいた。読み返すのがむつかしい。ぱらぱらとめくって人物の名前や込み入ったいきさつを確認したりはできない。ロシア語の名前は覚えにくいのだ。