トマト丸 北へ!

本と映画、日々の雑感、そしてすべての気の弱い人たちへのエールを

『わが母なるロージー』でカミーユ・ヴェルーヴェンとの再会がうれしい

『その女アレックス』のカミーユ・ヴェルーヴェン警部が連続爆破事件を捜査する。

一回目の爆破後すぐに自首してきたジャン・ガルニエとカミーユのやり取り、犯人の前

代未聞の要求、周到に用意されたクライマックス。すべてが上質なミステリーだ。

前作に続き、カミーユの人物像が魅力的だ。145センチしかない極端な小男だ。画家だった母親譲りの画才、権威を恐れない自由な魂、キレる頭脳。そして彼は善き人だ。私にとってはこれが一番だいじだ。善き人とは、生命力を愛すると言うことだ。シニカルではあるが人情もある。

それが表れているのが、彼の深い洞察力、うぬぼれも利己心も極端に少ない客観的な物の見方だ。彼は自己を突き放して見ることができるし、犯人の人間性も深く理解する。

そういう男だから、上等な女性にもてるし、ルイや他の部下たちに敬愛されるのだ。

こち亀の中川のようにカッコいいルイも素敵だ。金持ちで頭が良く有能で性格もルックスもいいという。

電話の会話だけの登場のアンヌもいい。ツンデレ猫のドゥドゥーシュも元気だ。

ヴェルーヴェン警部?

 

 

 

星友啓『スタンフォード式 生き抜く力』 

オーディオブックで聴いた。

著者は「スタンフォード オンラインハイスクール」の校長。

この学校についてネットで調べてみた。

スタンフォード オンラインハイスクール」とはスタンフォード大学の中にあるオンラインハイスクールで、中1から高3までの約900名が学ぶ。8割はアメリカ合衆国、残りの2割は東南アジアやヨーロッパ在住だそうだ。

オンラインと言ってもレベルは高く、世界トップレベルのクオリティの高い教育が行われているらしい。いわゆるgiftedな生徒たちが学んでいるようだ。

授業はあらかじめ送られた教材や動画などをもとに生徒が準備してディスカッションや演習などを行う形式。3カ月に一度2泊3日のイベントがスタンフォード大学で行われ、生徒たちが集まるそうだ。クラブ、同好会、生徒会もあり。

80のコースがあり、必修科目は哲学のみ。哲学は生きていく上で絶対必要な「コミュニケーション能力」を養うために必要だからだという。

ここに著者の「生き抜く力」についての考え方が表れているように思った。

著者の考える「生き抜く力」の基本要素は

1.アクティブリスニング

2.思いやり瞑想

3.与える力のトレーニン

の3つのやり方で養うものだ。

1.「アクティブリスニング」とは、共感する力で「聴く」ということ。黙って聴くのではなく、「良いタイミングで会話に参加する」。

 4つのdoと4つのdon"t がある。DOは パラフレーズする、具体的に質問する、エンパシーを示す、表情、身振りなどで相手にシンクロし、相手の話に集中していることを示す、の4つ。DON”Tは、決めつける、話の腰を折る、アドバイスする、否定するの4つだ。

 DON”Tの中で「その気持ちわかる」と言ってはいけない、アドバイスしてはいけないなど、今までよかれと思ってやってきたことが間違っていたと分かった。説明に納得できた。 

2.の「思いやり瞑想」は、以前仏教書で読んだ「慈悲の瞑想」に似ている。誰もが健康で幸せでいたいと願う。その願いにシンクロする。身近な愛する人々からだんだんと世界中の人へとシンクロを広げていくというやり方。

3.「親切リフレクション」はぜひやってみようと思った。

 「親切にする日」を週一日決めて、5つの親切行動を行う。その一つずつを6つの視点から振り返り、日記やメモなどに書きつけておく。次の親切の日の前日、その日記を見て行動計画を立てる、というものだ。出来るだけ新しい親切をする。前回した親切を改善してみるのも良い。

 6つの視点とは、どんな親切をしたか、誰のためになるか、どうしてそうしたのか、どんな気持ちになったか、他の手段はなかったか、さらに相手のためになることはないか、だ。

 著者の提唱する「生きる力」とはコラボ力だ。日本の使い方だとコラボレーションは違う分野あるいは業種が共同して新しいものを生み出すことを意味すると思うが、著者が言っているのは、広く他の人々と協力するすることだ。何をするにもコラボが必要。一匹狼の人生は惨めだ。

 この本を聴いて、「一匹オオカミ」を自認する私だが、少し思いが変わった。ひきこもってたけれど、気を取り直してもう一度社会にコミットしようかなと。そういう気持ちにさせる、明るい暖かい文章だ。うまくやる「やり方」があるのだとわかった。

 心に残ったのは、「感謝の効用はされる人よりする人にあらわれる」「許すことは、相手のしたことをなかったことにしたり、大目に見ることではない。復讐心を解消し、悩み、怒り、悲しみなどを変化させ、心の平和を取り戻すことだ」「相手の言動が原因とはいえ、ネガティブな感情は自分由来のもの。その方向を変えるヒーローは自分自身しかいない」などなど。ノートに何ページも書き抜いた。

 やってみようと決めたのは、「親切の日」と「感謝」「アクティブリスニング」の3つだ。

和田秀樹『80の壁』 幻冬舎新書 読んでめっちゃ気がラクになった

話題の本を読んでみた。

年を取るって、楽しいんだと思った。

要は気楽に行こうということだと思う。

だいじだと思った三つのこと。

①嫌な思い出との付き合い方

 新しいことを上書きする。思い出はつまらないこと、嫌なことほど削除が困難だ。振り払い振り払いの毎日。それでもどうかするとひょっこり出てくるのが嫌な記憶だ。せんない後悔に我とわが身をさいなむ日々。

 「上書き」という方法があった! ほんとにしようがない奴だと自分を笑ってしまおう。それがあったから今の気楽な境地がある、とか。新しいことに向かっていく楽しさにフォーカスするとか。

認知症は老化現象

 できるだけ頭と体をどんどん使ったほうがいいらしい。しかしいつかは衰えていく。もう、そこまで来ている。心配せず、なるようになるさと。

 そしてめでたく80の壁を越えたら、楽しみもある。嫌なことは聞こえないふりをすることもできる。実は今もう、たまに来る勧誘の電話など、「さあ、私そういうことは全然わからないので」「若い人に任せていますので」などと言ってやんわり切っている。これからそれをもっと広範囲に使えるわけだ。

③楽しんでこその人生

 好きなことをする。嫌なことはしない。残り少ない人生、もう一瞬たりとも無駄にしたくない。出来ることはやっておこう。

 でも実は、若いときからそうだったのだと思う。「あんなことしたら恥ずかしい」とか「好きじゃないけどこれをやっておいたほうが役に立つかも」とか、無理して何をがんばっていたのか、自分が不思議だ。

 成功した人って、自分に合ったこと好きなことにフォーカス出来た人じゃないのかしらん。

上橋菜穂子『香君』を読む

上橋菜穂子、待望の新作『香君』上・下 文藝春秋

ちょっと待って買った。美味しい料理には最後に箸をつけるという人種のように、なんだかすぐに買うのがもったいない、という。ひとたび手に取れば最後まで読んでしまうこと必至だ。未読の作品がゼロになってしまう。だから。

期待を上回る作品だった。オリエとアイシャという二人の女性像はとても魅力的だ。

物語の世界で「帝国」はオアレ稲という優れた品種の稲の種籾と肥料を独占することにより、周辺の国々を支配している。病気になりにくく、収穫量、味、栄養価にも優れるオアレ稲は多くの国を飢えから救った。また「香君」という生まれ変わりにより永遠の生命を保つという「神」の存在を精神的支柱とした。

「香君」は先代の香君亡き後、13歳の少女たちの中から選ばれる。ダライラマの転生を思わせる方法で各地の娘たちの中から探し出すのだ。しかし「香君」に選ばれることは祝福とは言えなかった。

オリエは、年端も行かないうちに権力の傀儡としてまるで人身御供のように連れ去られ「香君」という虚像として生きることを余儀なくされたにも関わらず、自分自身として納得の行く選択をしようとした。美しくあえかな容貌の奥に強い信念と理想を持っている。

アイシャは天からさずかった異能の持ち主であり、人の心情はおろか植物の訴えることまでその発する香りから読み解く。その鋭い感覚が言わせた「香りがうるさい」という言葉が印象的だった。すべての生き物は「生きたい」「幸せになりたい」と願う。「生きたい」は個々の生物としてだけではなく「種」を存続させたいということだ。

「生きたい」「種を継続したい」という望みに善悪はない。さまざまな生き物のそれを等しく感じてしまうアイシャの苦しみは壮絶でもある。

アイシャはしかし自分の異能に振り回されることなく一人の人間として自分の生きる道を探る。

オリエはアイシャのような超能力は持たない。その意味では偽者の「香君」だ。しかしその気高い精神、命かけても人々を救おうとする志はほんものだ。

アイシャは超能力を持って生まれた。「香君」に選ばれた娘ではないが、実質的な能力を持つ。その重みに耐えて、与えられた自分のギフトを人々の暮らしを良くするために使おうと渾身の力を振り絞る。

この光と影のような、二卵性の双子のような二人の人物像は見事だ。

この物語から得られた気づきは大きく二つ。

①オアレ稲に依存した帝国とその周辺の国々のように単一の作物に依存することの危険性。これは自然と人間のかかわり方の根幹にかかわることだと思う。

 人類の歴史を観ても、かつて狩猟型の社会が営まれていたときは、人々は全人的に優れており衣食住すべてをまかなう能力を個々人が持っていた。様々な動物や植物を利用しながらそれらと共存してきた。

 小麦、稲などの集約農業が始まってからは今までとは格段に安定した多量の収穫を得ることができるようになった。同時に貧富の差が激しくなり、人々の生活から多様性が失われていく。また、その作物の天敵が襲来したり病気に侵されたりした場合は、ひとつに頼っているだけに悲惨なことになる。

 この二つを比べてどちらが「豊かな生活」なのか、いちがいには言えないと思う。二者択一という問題でもない。

 そういう重いテーマをこの作品は持っていると思う。

②帝国は軍事力によらずオアレ稲の種籾と肥料を独占することで周辺の国々を支配している。経済力による支配と言っていいのかもしれない。しかしオアレ稲に依存させることを前提としている点でその支配は危うさを秘めている。軍事力を行使するよりましだとは思うが、問題がないわけではない。

 二番目は国と国の共存方法の課題だ。

 ①も②もめっちゃ難しい問題で皆が納得する答えなどない。それは物語の世界から実際の世界に目を向けてみても同じだ。

 複雑で困難に満ちた世界。勧善懲悪では解決できない世界だ。

 私たちはオリエやアイシャのように個々の進む道に悩みながらそれぞれが最善を尽くしていくしかないのだろう。そして最終的には時代が答えを出していくのだと思う。

 この壮大な物語はそんなことを考えさせてくれた。

船井幸雄『一粒の人生論』をオーディオブックで三度聴いた

楽な気持ちにさせてくれた二つの考え方。

⑴世の中のすべてのことはマクロで見れば良くなる方向へ向かっている。

⑵すべては必然、意味のあることである。

 「マクロで見る」というのがだいじだと思う。

 人類は進歩していないと言う人もいるが、どう見ても良くなってる気がする。

 昨日今日、去年今年の範囲で見ると逆行しているような気もするが、大きな流れを見れば確実に良くなっているのだ。黄河は西から東へ流れているが、部分を見れば逆に流れているところもあり、淀んでいる場所もある。大勢としてはでも、確実に下流へと進んでいるから心配しなくていいのだ。

 これを読んで気がラクになった。⑵はよく言われることだ。⑴、⑵、共にそれで気がラクになるのであれば信じてさしつかえないことだと思う。

 他に「嫌なことをがんばらず、好きなことをする」「他人を批判しない。できれば包み込む。無理ならスルーする」など、実用的ないい言葉がたくさんあったので、三度聴いた。少し飽きてきたので、また折を見て聴こうと思う。朝の散歩の時などに聴くと気持ちが明るくなる。

 

ちきりん『多眼思考』を読んで開眼した

ちきりん『多眼思考』 大和書房

気になったところ、開眼させてくれたところ

014 「誰と時間を過ごすのか」は、「何をするか」とほぼ同等。(もしかしたらそれ以上)に大事。

 これはとても共感する。高級料理を嫌な奴と食べるより一人で本を読みながらファストフードを食べる方がましだ。だから、嫌な会合には行かない。ガイドブックに載ってる店でも、それまで贔屓にしてる店でも、嫌な接客があったら行かない。いばりながら提供されるのはごめんだ。

 いっぽう、何もしなくても、おもしろい会話がなくても、一緒に居るだけで心満たされる関係は最高だ。そういう間柄の人とは時間や空間を隔ててしまってもつながりが切れない。いつでも存在を感じることができる。

050 「思考力がある、ない」とか言うけれど、ちきりんが思うには、大事なのは「どれだけ考えたか」つまり「思考の量」です。「思考力の高い人、低い人」がいるのではなく「ナンも考えていない人」と「すごく考えている人」がいるだけ。

 これは目からウロコだった。考えることを諦めちゃいけないと思う。

 またここから敷衍して、読解力のある人と無い人がいるわけでもないのではと考えついた。難解な本に当たって玉砕し自信を失うことがあるけれど、読み解ける人というのはじっくりと読み込んだ人なのではないだろうか。読解の所要時間が短い人と言うのは、その手の本に慣れているだけなのかもしれない。始めはわからなくてもしつこく読み込んでいった経験があるだけなのかもしれない。

 自分の能力を見限り、そのためにいろいろ諦めるなんてくだらないってこと。能力に違いがあるとしても、上を見ればきりがないし、下を見て慢心するのも愚か。あまり周囲を気にしないといいのかも。

205 「バランスなんてとってるとおもしろくない」ってのは、人だけじゃなくて企業も同じなんだよね。「すべての人に満足してもらえる商品」とか作ってると、めっちゃおもしろくない商品になる。尖った商品、偏った特徴のモノにみんな惹かれる。」

 なるほど。そうかもしれないと思った。

 私の俳句が他人に響かないのも、そういうことかも。「尖る」。私の辞書には無いことばだった。

221 隣接する国はたいてい仲が悪いし、多くの場合、領土問題(国境問題)を抱えています。そういう問題が存在しない隣国関係が当たり前であり、問題は解決されなければならないなどとは思いこまないほうがいい。世の中、そんなもんなんです。

 この下りも目からウロコ! 問題があるのが「普通」「常態」なのだと考えたほうがいいのか、と開眼した。

 隣国を隣人と言い換えてもいいと思う。親族や家族も同じ。人間同士が隣接するーつまり利害関係を伴っているとき何の問題もないなんてあり得ない。近しければ近いだけ軋轢が生じるのだ。

 たとえば愛し合って結婚した共働きの夫婦。夫婦こそシビアな利害関係が生じる。家事についていっぽうが楽をすれば他方の負担が大きくなる。子どもが熱でも出せば「どちらが仕事を休むか」で当然もめるだろう。これが一緒に暮らしていない他人ならまったく争う接点がないわけだから問題も起こらないわけだ。

 何も無いなんてあり得ないと思った方がいいのだ。

 ご近所だって、「良い方ばかり」なんてあり得ないと思った方がいいのだろう。

 ここに書き抜いた目からウロコの文、こういうこと他の本にはあまり書かれていないように思う。「私のまわりはいい人ばかりです」「こうすればうまく行きます」「私はうまくやってます」的なものはよく目にする。「ああそうですか。良かったですね」としか言いようのない文章が多い気がする。それに比べてちきりんが言い切ってくれることはすごく参考になる。

 ツイッターの発言をまとめた本だけれど、通して読んで、ちきりんという人がわかって来た気がする。正直、さすがだと思った。

 

不朽の名作=ヴィクトル・ユーゴー『レ・ミゼラブル』をオーディオブックで聴いた

「生涯尊敬できる者と出会うこと、また全身全霊をかけて愛せる者と出会うこと、その両方を得たジャンバルジャンはきびしい人生ながら、この上なく幸福であったと言えましょう。」

 ジャンバルジャンの死に際して贈られた言葉が胸を打った。

 貧しさゆえに一切れのパンを盗んだジャンバルジャンは家族を案じるあまり脱走を重ねて結局19年間も投獄されていた。釈放されたものの寄る辺の無い彼を救ったのはミュリエル司教だった。貧しい客のためにこそ使うのだと言って銀の食器で彼をもてなす。しかしジャンバルジャンは銀の食器を盗んで逃亡する。

 ジャンバルジャンを逮捕して連れて来た警官にミュリエル司教は「その食器は差し上げたのだ」と言う。「この銀の燭台を忘れて行きましたね」と銀の燭台まで差し出すのだ。ミュリエル司教の無私の心、それよりもなによりも彼の中の善なる心を信じてくれたこと、あなたはもう更生していると言い切ってくれたことがジャンバルジャンの胸を打ち、苦難に満ちた人生を生き抜く力となったのだ。

 もう一人、コゼットがいた。貧しい母フォンティーヌは強欲で残忍なテナルディエ夫婦にだまされて幼いコゼットを預ける。身軽になって身を粉にして働き、コゼットの養育費を仕送りする。しかしテナルディエ夫婦はその金を着服し、コゼットを虐待してこき使っていた。ついに病に倒れ亡くなったフォンティーヌのためにジャンバルジャンはコゼットを救出、愛を注ぎ、養育する。

 警官のジャベルはジャンバルジャンの更生を認めず、「世間をたばかる元囚人」として追い続ける。ジャベルにとっての「法と秩序」は富栄えている者たちだけのためのものだった。ジャベルはそういうものを守ることが自分の使命だと思い込んでいたのだ。

 フランス革命に続く激動期のパリで、ジャンバルジャンとコゼット、革命を志す青年マリウス、ジャベルの運命が交差し、ぶつかり合う。

 小学生のころ「世界文学全集」で読んだ『ああ無情』は印象的だった。アン・ハサウェイの美しさが印象的な映画「レ・ミゼラブル」も良かった。やはり原作が名作だからだと思う。

 このオーディオブック版はコンパクトになってはいるがジャンバルジャンとジャベルの確執に焦点を当てて非常におもしろく、心揺さぶる作品になっている。充分に満足できた。