トマト丸 北へ!

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孤独こそ最高の老後  松原惇子  SB新書

著者の言う「孤独」とは、家族、もしくは同居人がいないことだ。

その孤独から逃れるために、老人ホームに入る、配偶者にしがみつく、養子縁組をする、などの方法をとっても、なかなかうまくいくものではないと著者は書いている。彼女が実際に見聞きして知っている事例を基にした話であるだけに説得力がある。

幸せを求めるなら、<部屋で一人で好きなことに没頭する>か、<努力してお喋り相手を見つけるか>だと彼女は言う。

後者を幸せと定義する人は多いと思う。

でも、私の場合、圧倒的におしゃべりを聴かされることの方が多いので、お喋り相手はいない方が幸せだ。老人のおしゃべりは、自慢が多く、それ以外のことでも、考えをまとめた成果ではなくて、ただの感情の駄々洩れが多いのだ。大好きな人相手ならばいいが、ただ孤独感から逃れるために時間を食いつぶされるのはごめんだ。お互いに敬意があれば、マウンティングなんてあり得ないと思うし、退屈な時間を我慢して得られる友人なんて、本当の友人ではない。

「友達がいる」と自慢する人がけっこういるが、ほんとに楽しい時間を共有しているのか、疑わしい事例も多い。

早い話が、我々夫婦がその良い例で、会話は多い方だと思うが、実際あまり話が噛み合っておらず、ただ自分の意見をしゃべりまくる「二人朝まで生テレビ状態」なのだ。

最近接近してきたひとは、自分のリア充な日常をしゃべりまくる。実家に蔵がある、洋裁がうまく、服は殆ど自分で作る、長年茶道をやっている、等々自分のことを教えて下さるが、私がそのことに興味を持っているかどうか、考えてみないのだろうか。相槌を打つ隙すらない怒涛のしゃべりなのだ。

そして私を見る。どうだ? なめんなよ。

老後の幸せは結局、その人の本質的な生き方に関わるものだと思う。

私の生き方は、孤独を友にして、好きなことをして過ごす、だ。

著者も、「幸せとは、誰かがいることでも、誰かと心が通じていることでもなく、一人の時間を満喫できることではないか」と書いている。

認知症にならないために生きる、健康のために生きる、というのは、生きる目的から大きく逸れている。その時間に楽しいことをやりたい」とも書かれており、共感する。

老後のために働いてお金を貯める、健康のために自分の時間の大部分を割く。その仕事や運動が好きで楽しければいいけれど、そうでなければ時間の無駄遣いだと思う。

後で後悔するかも、と言うけれど、それは結果論だ。何千万円あっても、年をとってしまうと出来ないことがある。少しでも元気と感受性がビビッドな間に、楽しいことを満喫しておきたい。今だって、二十代のころに比べれば、行動がかなり制限されてしまうのだ。

「今」楽しむことが、私にとっては大事。

その他心に刺さった文章は、

 

高齢者は、自分に関心を持ってもらうことに飢えている。

得るものがない人と話しているほど退屈なことはない。

人間関係は、薄いに限る。

身内同士ほど会話は少ない。

ひとりでずっと生きて来た人は、人と密着するのが得意でないから、ひとりなのだ。自分を他人に合わせることに我慢することが苦手だから、ずっとひとりだったのである。

そもそも家族はあなたの言う通りにはしてくれない。自分の死後のことで頭を悩ますのはやめるに限る。

 

また、「エンディングノート」ならぬ「エンディングファイル」の提案は、いいと思った。作ろうと思う。

「遺言執行人」というものが必要だということも初めて知った。

この本の良さは、抽象的な心構えを説くのでなく、実際的な提案が述べられていることだ。読んで良かった。