トマト丸 北へ!

本と映画、日々の雑感、そしてすべての気の弱い人たちへのエールを

「パラサイト 半地下の家族」 監督 ポン・ジュノ

話題の映画を観た。

半地下に住むキム一家は、四人全員が失業中で、貧困な生活を送っている。

映画はキム一家が住む半地下の住まいから見える景色から始まる。部屋の上方にある窓からは日が差し込み街並みや空も見えるが、酔っ払いが必ず窓の側で嘔吐や小便をする地域でもある。

後のほうになって判明するが、彼ら貧しい人々が住む所は金持ちの住む高台から階段をいくつもいくつも下った低い土地であり、その更に半分地下になったところにキム一家は住んでいるのだ。豪雨に見舞われると濁流が流れ込み、汚水があふれる場所である。

韓国の社会事情、就職難や大学進学の困難さなども見えてくる中、長男ギウが留学する友人の代わりに富豪のパク氏の娘の家庭教師になったことから物語が動き始める。

キム一家は失業はしていたが、無能な人間たちではない。それぞれの特技(?)を生かし、汚い手も使い、全員がパク家へ入り込むことに成功するのだ。

正直、好きな映画ではなかった。

人間がとてもリアルに描かれている。私の見たくない面が。キム一家は悪い奴らだとは思うが、憎めない。けれどあまり好意も持てない。

この映画は、お金持ちなら優しくもなれるが、貧乏人は貪欲になるしかない、という人間の見方をしている。一抹の希望のある結末だと言っている人もいたが、私からすると、何のために人は生きているのかな、と思ってしまう。貧困がいけないのだろうか。社会構造が悪いのか。人間の本性が悪いものなのか。

救いが無い。

しかし家族の絆は強い。パク家の家政婦の夫婦愛、キム一家の互いへの思いは半端ではない。パク家の人たちの「優しさ」が底の浅いものであり、本当に相手を人間と見て尊重しているのではないことと対照的だ。それに比べるとキム家の家族愛、家政婦たちの夫婦愛の方が本物に見える。

だから、半地下でも花を育て、清潔に暮らし、自分たち以外の人たちとも仲良くできないものかと思う。頭の良い、生きる技術も持っている人々なのに。

ギウが金持ちの娘の家庭教師になっただけでは満足できなかった。妹までならまだ良かった。でも、どんどんエスカレートしていく。幸運を手にしても、欲望は更に増すだけだ。

父親のギテク氏は自分たちが騙した男がどうしているかと思いやる優しさを持っているけれど、他の三人は世間に対して荒み切っている。

ふと思い出したのが、早乙女太一さんの幼いころの思い出。興行のためにろくに小学校へも行けず、当然友達もできなかった彼に、あるとき仲良くしてくれる友人が出来る。

或る日、その友人と他の子どもたちが早乙女さんの所へ遊びに来た。大喜びでもてなし、一緒にゲームで遊ぶ幼い早乙女さん。

しかし、「友人たち」が帰った後、ゲーム機がすべて無くなっていたそうだ。翌日学校で問い詰めても、「知らない」と言うばかり。

私が学童で世話をしていた子供たちも、きれいなリリアンの紐の手芸を教えたところ、出来上がった他の子の紐を盗む子がいるのだった。盗むことを止めさせようと一生懸命話したが、私の言葉は彼らに通じなかった。

悪いことをさせないためには高価な物やきれいな物を目に付く所に置いてはいけないのだと思い知らされた。

人間にはそういう側面がある。ほろりとさせられる純な側面もあるが、そうでない面も持っているのだ。

そんなことを思い出した。

同じような底辺の家族を描いた「万引き家族」とはだいぶ違う。

でも、韓国映画やドラマを観ると私は人生に対してアグレッシブになれる。ポジティブというよりアグレッシブ。人間の本質をえぐっているからかもしれないと思う。