トマト丸 北へ!

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自分の物語を創るということ

「『サピエンス全史』ユヴァル・ノア・ハラリ著 柴田裕之訳 河出書房新社」 の上巻を今読んでいる。とてもおもしろい。以前読んだ漫画の『サピエンス全史』もおもしろかったが、こちらはまた一味違う深い内容だ。私はなんとなく人類の歴史を栄光と進歩の歩みのようにイメージしていたのだが、この本は他の生物を絶滅させるなど暗い現実に光が当てられ、目から鱗だ。今まで進歩だと思っていたものが実は違う側面を持っているという見方もあるということだ。

今、人類が狩猟採集生活から農耕へと変化しているところを読んでいる。著者によればそれは農耕民個人個人にとっては幸せな変化ではなかった。農耕は単一ないしは数種類の穀物を集約的に栽培することだ。そのため旱魃穀物の悪疫などにより大きな打撃を被ることになる。狩猟民族の食料は多様だったから、ひとつの食料が不足しても他で補うことができたし、その土地から移動して他の食物を求めることが可能だった。しかし農耕民はひとつの場所に定住せざるを得ない。彼らは不作の年のために食料をため込むようになる。しかしその余剰食糧が彼らを豊かにすることはなかった。「至る所で支配者やエリート層が台頭し、農耕民の余剰食糧によって暮らし、農耕民は生きていくのが精一杯の状態に置かれた。」と書かれている。

なぜ農耕民はそんな状況を受け入れたのか。詳細ははしょるが、それは「想像上の秩序」が作られたからだということだ。おおざっぱな言い方になってしまうが、支配層が自分たちのために作ったフィクションがこの「想像上の秩序」だと思う。狩猟民族時代に大勢の人々が協力して事に当たれたのは「彼らが共有していた神話」のおかげだった。しかし「この種の協力は穏やかで限られたものだった。」農業革命以降、それはより強力かつ絶対的なものへと変化していった。これは例えば王様や貴族が贅沢な生活を送り、農民はほとんどの食料を彼らに捧げて貧しい生活を送りながらも上流階級の人々を崇め「王様ばんざい!」と叫ぶ。なぜかと言うと「王様は生まれながらにして高貴で偉い」と信じられているから、というようなことだと思う。

ここまで読んで、少数のエリートたちが多数の農民を搾取することを可能にした「神話」は現代にもあると思った。というか現代社会も無数の神話によって動き繁栄している。しかしこの「繁栄」は種としての繁栄であって個々の人間を幸福にするものではない。多くの人々は自分を幸福にするわけでもない「神話」を信じ込まされているのではないか。消費は美徳であるとか、東大生は偉いとか、美人はステイタスが高いとか(私のコンプレックスがあらわになってしまうラインナップだが)。お金持ちや東大出の人や美人がこの神話を推奨するのは分かる。しかしこれらの神話を支えているのは彼らより圧倒的多数の裕福とは言えず学歴も誇れず美人とは言えない人々だ。つまり一般庶民は自分が得をするわけでもないフィクションを信じ込まされ、一部のエリートに奉仕しているのでは。そんな気がしてきた。

そして、その構造は小さな限定された社会の中でも機能しているのではないか。

ここから一気に我田引水になって恐縮なのだが、私の今までの人生が失敗続きで嫌われ者として生きてきてしまったのは、この構造のせいなのではないかと思い至った。もちろんそれだけではなく自分のスペックの無さ、自分勝手な性格などだめだめ人生の要因はいろいろあるが、今はそれらを除けて考えたい。

つまり私がダメなのは周囲の人間がダメ人間を必要としていて「あんたはダメ、比べてオレはすごい」という「神話の物語」を作り私に押し付けていたのではないかということ。私は人の好さのようなものでそれを受け入れてきたのではないかということに気づいたのだ。

犬は自分が群れのヒエラルキーの一番下だと思うと辛すぎて生きられないと聞いたことがある。「自分より下」があれば心理的に安定するそうだ。人間も群れで生きる動物だから同じだ。と言ってもどうしても誰かが「一番下」になってしまうから、弱いものや私のようなお人好しにその役割を押し付ける。悲劇的なのは、そうなっても「縁の下の力持ち」的扱いでさえなく、その役割が揺らがぬよう徹底的に貶められることだ。立つ瀬がないとはこのことである。社会全体で見ればエリートとはとても言えない人々が自分の属する狭い社会ではこのえげつない「オレより下がいる。それはアンタ」という物語を弱いものに押し付ける。あるいは「可哀そうな○○さん」という役割を押し付ける。

その集団の中でわりと下層に居る人や、緊張感を持って所属している人が特に熱心にそれをやる。怖いのは上の方にいる人間もその集団の秩序=自分の地位を安定させるためにそのフィクションを受け入れ後押しすることだ。だめな先生が自分のクラスで行われている虐めを見ないふりするだけでなく自分もそれに加担して勢力のある生徒の機嫌を取るというような事例がそれに当たる。苛めやパワハラを告発しようとしても逆に告発した人間が非難の的になってしまうことが多いのはそのせいだ。

しかしそうやって必死に他人を貶めて得た「自分はまだまし」という物語も、さらに上の本当のエリートたちを支える人柱のようなものに過ぎない。その物語は「自分を幸せにする物語」ではないのだ。

現代の社会構造は複雑だから、一つの小社会ではダメでもあっちではOKとか逃げ場もあるわけだが、「私はだめ」という物語を受け入れて内在化してしまった人間はどこへ行っても芽が出ない。最下層民として生きて行くことが習い性となってしまう。その人がどこへ行っても、この「最下層民臭」が抜けない限り新しい場所でもヒエラルキーの一番下に追いやられるのだ。なぜなら人々は常に自分に都合の良い自分より下の人間を必要としているから。

私がどこへ行っても失敗するのはこの構造のせいではないかと思い至った。私は厚かましい人間が自分を肯定するために作ったフィクションを受け入れ、飲み込み、内在化してしまったのではないか。たぶん元々は「みんなを立ててあげたい」という優しさから発したことなのだ。いや、私の中に相手を立てていれば優しくしてもらえるのではないか、もっと言えば楽が出来るのではという打算もあったかも知れない。組み易しと見られてやられる、ということもある。でもとにかくこうなってしまうと自分の辛さが先に立ち、もう他人にやさしくする余裕などほとんどない。

先日私は「志を持とう」と決めた。「志」は自分の栄達を図ることではなく、他人の幸福を願って持つ計画だ。しかしそれは他人の利己的なフィクションを受け入れることではない。そういうフィクションは作った人間にとっても有害だし、何より自分を惨めにする。

「自分を幸せにする物語」を創ろうと思う。他者の承認や「自分より下の人」を必要としない本物の幸せの物語。たぶんそれは自分時間を過ごし自分のIT(アイティーでなくイット。これという熱中できるもの)を持つことだと思う。私がなんとかつぶれずに生きているのはこの幸せな自分時間のストーリーがまだ生きているからだ。

「常に感謝する」のがいいことなのは、感謝は自分を幸せにするストーリーだからだ。一杯のコーヒーを飲んで、コーヒー農園の人をはじめとして運んできてくれた人、焙煎してくれた人、コーヒーを淹れてくれた人などに感謝する。それは「自分はこんなおいしいコーヒーが飲めて幸せ」だと思うことだ。「自分は幸せ」という物語の一部だ。

人を恨むのが良くないのは、「こんなめに合って私は不幸」というストーリーを繰り返し描き続けることになるからだ。

人は自分を幸せにする物語を創り、描き、語るべきだ。他人の勝手な物語に振り回されてる場合じゃない。

参考文献;『サピエンス全史』