トマト丸 北へ!

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観なかった「大豆田とわ子と三人の元夫」

今週は観なかった「大豆田とわ子と三人の元夫」、見た人のレビューを読んで、やっぱり観なくて良かったと思う。

例の私の嫌いな三人の女たちが「三人の元夫」を攻撃しまくるシーンがあったようだ。さらに「大豆田とわ子の不在」についても第三者の無責任な意見を炸裂させたみたいだ。レビューの書き手は「関係のない人物にたいする第三者の関心はこの程度のものなのだろう」とそれらの発言にリアリティを感じていたようだが、なんだか、空しい。それがどうなの? こいつらが嫌な奴だってことに変わりはない。自分たちを愛してくれない三人の元夫を攻撃するのも愚かすぎる。たとえそれが「愛している」「私を愛して」の裏返しだとしても、生の気持を相手にぶつける無神経さ、甘えは最低。これって、直接ぶつけるのでなければ、ありなんだよね。この三人が元夫たちのいないところでぶち上げるのであれば、けっこうおもしろく見れる場面だと思う。しかし直接言うというのは。愚かで醜すぎるかも。また、これが夫や恋人を相手にして言うことだったら、当然と思えるかもしれない。でも、相手は他人だよね。

これほど不快感を持ってしまうのはなぜなのかと考えて、気づいた。この三人の描き方には、すごい女性蔑視が隠されている。確かにリアリティがある。女性の嫌な面愚かな面醜い面を拡大して描いているのだ。演じる人たちが芸達者なので、さらに真に迫ってしまっているのだ。この女たちが嫌というより、彼女たちの描き方が嫌なんだな。

ああ、そして、かごめが死んでしまったみたい。

これについては、言及する気にもならないくらい、切ない。夢ならば覚めてくれと思う。ほんとうなのだろうか。まだ大豆田とわ子自身が死んでしまったというほうが受け入れられる。なんでだよ!

辛すぎる。

この脚本家は私に何か恨みでもあるのかと思うくらいだ。

これまで通り録画は続けて、最終回を観てから、またこの回に戻って観るつもりだ。かごめの死がほんとうだったら、そのときその死を悼もうと思う。