トマト丸 北へ!

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上沼恵美子さんの「別居婚」に学ぶ

上沼恵美子さんが大好き。その話芸は絶品だ。

同じことを何度話しても、上沼さんだとめっちゃ楽しい。おもしろい。NHKの土曜日の番組に出ておられたころは楽しみだった。実家が大阪城、というような壮大な自慢?話がほんとに楽しかった。話し方も好きだし、小さくちりばめられた悪意のようなものもいい味付けだった。悪意の扱いが洗練されていた。こっちで「エミチャンネル」の放送があったときは夢中になって観た。この番組を打ち切るプロデューサーは、はっきり言って無能だと思う。上沼さんに土下座してでも存続させるべきだ。

そういう上沼さんが、近年別居婚をされていると知り、その経緯を聞いてなるほどと思った。もたれ合わないが助け合う、すてきな結婚だと思った。「結婚」と名付ける必要もないすてきさ。

家族は流動的なものだと思う。

一番結びつきが強固なのは子供が幼い期間だ。子どもには育つための「巣」が必要だから。また、一緒に仕事をしている人たち、生活の主な部分を共有している人たちにとっても、二人の「巣」が必要な場合があるだろう。

しかしそれらは時と共に変わりうるものだ。

下の子が、自分たち夫婦はお嫁さんの親のめんどうをみるからお母さん(わたし)の老後はみれないと言った。その言い方にはむっとしたが、言ってることは正しい。

もとより子どもたちに生活面の負担をかける気はない。先のことはわからないが、そうならなくても済むように準備をしつつある。ただ、頼みもしないのにはっきり言われると嫌な気持ちになったので、それは伝えた。寂しい気持が湧いてきたのもほんとうだ。

しかし子どもはもう新しい家族を作ったのだ。その経営で手一杯なのだし、それでいいのだと思う。これからもっともっと大変になるだろう。その過程で、何十年か後には、あのとき別の言い方があったんじゃないかと悟ることもあるだろうが、それはそれ。今は自分の家族を守るのが正しいのだ。

郷里の「家族」も変わった。今姉と母が助け合って一緒に生活している。四人家族だった私たちは、私が家を出、父が亡くなり、形が変わったのだ。今、母と姉が家族であり、私はそうではない。

私は長い間それが納得できなかった。家を捨てたくせにまだ「家族」だと思いたかった。私の箸を処分して「割りばし」を出してくる姉を冷たいと思った。もうそこに自分の席がないことが信じられなかった。「実家」ではなく私にとってはもう「虚家」なのだということが、甘ったれの私には納得できなかったのだ。でも、それが事実だ。そしてそれは特に悪いことでもない。

夫と作っていた家族も、もう無い。子どもたちは巣立った。それは正しいことだし、幸せなことだ。子育てがうまく行ったということだと思う。

夫と私は今でも助け合って暮らしているけれど、方向性はまったく違う。それを夫に対して済まないことのように思っていたが、そう思わなくていいのだ。家族の形は流動的なもので、変わって行っていいのだ。むしろ、同じ形にしがみつくことの方が自然に反しているのかも知れない。ライオンなどの動物も成人した子は自分の縄張りから追い払うらしい。子育てすら一緒にはしない動物も多い。

うちは上沼さんのように別居というわけには行かないのだけれど、(経済と夫の健康上の理由で)、同じ家の中でも、関係性を変えることは可能だ。お互いに自由に、楽しくやっていいのだ。何も我慢する必要はないし、我慢は1ミリも相手のためにならない。自分が楽しくしていることが最高のケアだと思う。

上沼さんが「私は夫源病」と言われていたが、私もそうだと思う。夫に縛られていると思い、不安定になっていた。それはないのだ。縛っていたのは夫ではなく自分だったのだ。

上沼さんはこれからもっともっと素晴らしい仕事されるだろうし、心豊かに過ごされると思う。「私も」とか「も」をつけるのは僭越だけれど、でも、アタシも自由に生きよう。