今年のNHK大河ドラマはおもしろい。「花より男子」以来の松潤ファンなのだが、改めて見直した。それに、語りつくされている徳川家康の新解釈がおもしろい。たいがいのドラマは始めはおもしろくてもいずれだんだんと期待を外れてくるのだが、今回の「どうする家康」は回を追うごとにどんどんおもしろさが増してくる。
で、家康。司馬遼太郎を読み直してみようと思っているのだがその一番手で家康を読む。(次はもちろん空海だ。)
さすがの内容に魅了され、一気に読んだ。
司馬遼太郎の描く家康の特徴は、「ゆらぎ」だと思う。
だいたいの人物伝は、これこれこういう美点があったからこの人は成功しました、というその人に一貫した長所をアピールする書き方がされているが、この本は違っている。
もちろん優れた人物ではあるのだが、あるときは幼児のように不安定になり、あるときは思い切り優柔不断であり、ある面では愚直なまでに誠実である。著者も「ようわからん」という意味のことを言っているのだ。
そこが面白かった。そういう不可思議な「ゆらぎ」が遂には天下を取らせたのではないか。
そのあたりが読み解かれているのが上巻の272ページあたりだ。
堺見物を終えて京へ引き返そうとしていた家康は、茶屋四郎次郎、本田平八郎の二名から信長の死を告げられ驚愕する。
家康は小川へ「ずり落ちそうに」なって家臣に抱き留められるのである。ふだん冷静な彼が「人変りしたほどに取り乱し、目も頭も壊乱して形相までかわった。(中略)彼は幼児になった。駄々をこねた。」
こういうことがこの男の生涯に二、三度あったと書かれている。
また、天下取りを目標とし、そこから逆算して目的のために行動を決めたことは一度もないとある。彼が常々考えていたのは、三河の国を守るということだけだったと。
彼の「誠実さ」は桁外れで、信長との同盟を守り通し、どんなに酷く利用されても二十年の長きにわたって裏切ることはなかった。家臣が裏切ったり逆らったりしても詫びを入れて来れば許し、従来通り使ってやりもする。
このあたりの記述がとても興味深い。
そのほか私が着目したのは家康の「健康オタクぶり」だ。これについてはこのごろテレビでもよく取り上げられている。特色は健康・衛生について当時としては一流の見識と研究心を持っていたこと。(女好きではあったが漁色には走らず元家臣の妻など安全な範囲の女性のみを相手にしていた。これも病気をうつされる危険を避けたためではないかという。)にも関わらずその研究の成果を自分の養生のためにのみ応用し、家臣であろうと家族であろうと他の人間たちへ忠告したりはぜんぜんしなかったらしい。この辺りもおもしろい。
家康が天下人となった資質を二つ挙げるとすれば、信頼感と可愛げだと思う。
信頼感はどうしても必要だ。信長のようにいつ怒り出すかわからないのでは危険でしようがない。気の休まる暇がない。秀吉も晩年は気まぐれだった。また、彼のような出自と境遇からのし上がるためにはやはり人を出し抜くこともあっただろう。
可愛げというのは男が出世するためにとても役に立つ。女たちには「この人には私が居なければ」と思わせ、家臣たちは「わしらが支えねば」という気持ちにさせる。ふだんは冷静であっても時に自分をさらけ出す人間だったのではないだろうか。幼いころから今川の人質として育ち、周囲の家臣だけが頼りだった。家臣たちも「仕える」というより「守り育てる」気持ちが強かったのではないか。幼い家康は主君であるとともに「みんなの子ども」でもあったのでは。
信長、秀吉には周囲の人たちが付け入る隙というものがまったく無かったのではないだろうか。
この本を読んでこんなことを考えた。(ただ、『覇王の家』という題名の意味が、今もぴんと来ない。)