人生の課題は「劣等感の克服」である。
赤ちゃんには劣等感はない。成長するにつれて親から劣等感を植え付けられる。だが、その親も劣等感を持っている。劣等感は代々受け継がれてきている。
親も、そのまた親も未熟だった。そういう育て方しかできなかった。
どこかで誰かが断ち切ればいい。
そのためには「自分を尊重して価値のあるものとして取り扱う。自分を愛し、尊重する」ことだ。
劣等感を克服できない人には二通りのタイプがある。
⑴人を怒鳴る。自分より弱い者をいじめてうさばらしをする。
⑵憐れみを乞う。同情を引くことで人のエネルギーを奪う。
⑴も⑵も他人のエネルギーを奪うという点では一緒。
そういう人に巡り合ってしまった場合、逃げる。逃げられないときは「見抜く」。
劣等感から攻撃してくる、攻撃する強さを持たない場合は憐れみを乞うてくる。
その劣等感はどこから来るかというと、親から植え付けられたもの。その中身は「おそれ」である。恐れなければいけないと親や世間から思い込まされている。
怖れを撃退するには愛を増やす。愛と恐れは共存できないから、愛の時間を増やせば恐れている時間は減る。
「自分を愛し、尊重する。」
「自分によい言霊を注ぎかける」
自分の中に愛があふれてきたら自然に感謝できるし人に対する愛も出せるようになる。
注意すること; 「悪徳裁判官」
「悪徳裁判官」は昔の失敗や劣等感を持ち出して同じことで何度も人をいたぶる。
正しいことを言っているような気がしてやられっぱなしになっている人がいるが、誰も同じことで何度も何度も罰せられる必要はない。そもそも罪があるのかどうかも疑問であることが多い。
「悪徳裁判官」が現れたら、即追い払う。心の中から出て行ってもらう。
私が理解したのは上記のような内容だ。
「悪徳裁判官」にはハッとした。いるいる、と。
昔の恥を思い出してのたうちまわることがよくある。悪徳裁判官は永遠に私を許さず暇さえあれば責め立ててくるのだ。
考えてみればやられっぱなしでいる必要なんてなかった。苦しんでも誰のためにもならないのに。「go out」と言えばいいだけだった。
逆に自分をうんと甘やかすことのほうが大切。一人さんが言われるように「世界中が非難しても自分は自分の味方でいる」のだ。