トマト丸 北へ!

本と映画、日々の雑感、そしてすべての気の弱い人たちへのエールを

『ひとりならそれでいいじゃない』(曽野綾子 ポプラ社)を読む

久々に紙の本を読んだ。

地図を買いに入った本屋で目についてすぐに手に取った。

曽野綾子さん、敬愛する、ちょっと怖い人。私からすれば高潔すぎて近寄り難い。潔さがまったく無い自分が悲しくなって、好きなエッセイなのに読み返せない、そんな作家だ。彼女の小説を読み返すことが楽しみでもある作家。

キリスト教が理解できないのもちょっと距離を置いてしまう理由のひとつだ。

でも読んでしまう。しばらく離れても、また読みたくなる。

 

このエッセイ集も、ごりごり心を削られる快感があった。

くっと心に入って来た文章を書き留めておきたい。

 

前書き

今この瞬間に自分が何をすべきか、神の命令があると思うようになった。

「大したことではない」とある。干物をおすそわけしようとか、猫に水を用意するとかそんなことだと書かれている。

こういう感じ方は、別に何かに責任のある人の重責というわけではない。今この瞬間、自分が守るべき命の全てに対して責を負っているのである。

とすると、どの人の存在の価値も同じということになる。

別の所に「夜一つの屋根の下で生きる命は動物も虫もすべて運命共同体」という記述があった。

植物も、動物も、人間も含めて一軒の家にすむ生き物すべての命に対して責任がある。命のために必要なことをする。もちろんその中には自分自身も含まれるのだと思う。

その全員の命のためにするべき目の前のことを淡々とやっていくこと。曽野さんの意図とは違うかもしれないが、それが「家事」なのではないかと私は思うのだ。

家事は非生産的だと貶められることもあるが、人間として日々為すべき価値のある業だろう。社会的に高い地位にあるとか、そういうことに関わらず、すべての人が日々こなしている大切な仕事だ。

 

p39 

人間らしい会話に必要なのは技術ではなく、信頼と共感

これはインタビューをする人についての考察から導き出された文だ。そこから敷衍して

人生は、技術ではない。人生には誠実がいる。

誠実とは「もののあはれ」を知っていることだ。

別の言い方をすれば、共にこの世には哀しさがあると感じていることだ。

もし人間の心に高慢さや、高度の自信や、相手を見下した思いがあったら、決して「シュンパセイア(相手と同じ立場に立って同じ感情を持つこと)」を持つことはできない。

この下りは心に響いた。

聞き上手と言うけれど、いくら「うんうん」とうなずいて聞いてみせても相手への敬意と共感かなかったとしたら心を開いてはもらえないだろう。

以前電車で隣り合わせに坐った男が手帳に俳句を書きつけている私を見て「俳句ですか」と話しかけてきた。

「この三日間の旅行で百句作ろうと思ってて」と答えると、「すごいですね!」と言うので「いや、上手じゃないんですけど」と言ったら、「いや、意欲がすごいですよ」と返された。

「上手じゃない」はもちろん謙遜ではなくほんとの所だが、それを受け入れるか? 「意欲がすごい」というのは、内容は大したことないということだ。それを他人が言ってくるって。

どうせこんな婆さんの作る俳句なんか大したことないと思っているからそんな言葉が出てくる。でもそれを正直に言うなよと。

嘘でも「そんなことないでしょう」とか、人間らしい対応が欲しかった。話しかけてくるなら、それが最低限の礼儀じゃないかな。

その男は「退職したのでこれからは妻と旅行がしたい」と言っていたが、妻の方はそう思っていないのではないかと思った。こんな男と旅行してもね。それに妻の方はとっくにひとりで楽しめることを見つけているんじゃないの。

ほんと人の楽しい時間に割り込んできて不愉快な奴だと思った。それもこれもこの男が元来高慢で人を見下しているからなのだ。

 

p231

あまり騒ぎ立てず、穏やかな笑顔で一生を終われば、それでいい。

成功も出世も、本当は要らないのだ。只、あまり騒ぎ立てず、穏やかな笑顔で一生を終わる。これだけが人間の義務なのかもしれない。

胸に沁みる文章だ。とってつけた、あるいは無理に紡ぎ出した言葉ではない。曽野さんの誠実な人生から滲み出てきた言葉のような気がする。

これを一日と考えることも出来る。

「あまり騒ぎ立てず、目の前のことを淡々とこなして、穏やかな笑顔で一日を終える」ことができれば最高に幸せなのではないだろうか。

 

p232

私の亡骸が土に返り、その上を吹き過ぎる風も、その上に生える野の花も、何一つ私のことは語らないし、知らない。そういう結末は実に明るい。

この美しい結びの言葉を私は何度も思い返すだろう。

著者は以前、亡き夫である三浦朱門さんと共に二人の夥しい生原稿と写真を焼き捨てたそうだ。

後に残るものは、私の作品を読んでくださっている方たちの手元にある本と記憶だけ、ということにしたかった。

とある。「本は出版社に在庫を捌く上で迷惑にならない範囲ですべて絶版」だと。

もうすごすぎて、潔よすぎて、涙ぐみそうになる。

 

表紙の写真の表情はきびしい。穏やかな笑顔の写真もあるのに敢えてこの写真を表紙に選ばれた。かつて遠藤周作さんが「まあ、美人である」と評された若かりしころの写真ではなく、老いた作家の写真だ。その佇まいを美しいと私は思った。