しかし、いちばん感動したのは、この著者のキャパシティー。なんという心の広い人なのだろう。「人を見る目」が冷徹でありながら寛大で、ありのままの姿をただ観るという姿勢を崩さない。
ときに援助の手を差し伸べたりもするが、べたべたと生活に入り込むことはせず、俳句の評価も同情によって左右されない。ほとんど資料のない、直接会っていない人のことも人脈を駆使してその実像に迫ろうとする。著者自身は床屋さんという実業についていたらしく、実直な人生を歩んでいたのだと思う。ともかく著者の誠実な文章、言動に敬愛の念を持ってしまう。しかし彼の中にも風狂の部分があり、そこが俳句を作らせ、この本に出てくる俳人たちを受け入れさせたのではないだろうか。
ここに出てくる人たちは皆すごい。貧乏とかそういうことだけではなく、世俗から脱落しているというか、人格が破綻している。世間のあらゆる基準からドロップアウトしている。私にはとうてい受け入れられない。
人格が破綻しているのはまだ何とか理解しようと努力することができるが、彼らの前時代的な女性蔑視、暴力、妻子や家庭を顧みないことは耐えがたい。私は恋愛は自由だと思うものだが、弱い立場の性を蹂躙する性的放縦さは許せない。
彼らの自分自身に対するケアの放棄というか、自分を痛めつける生き方も許容できない。「もっと自分をたいせつにしなよ」と膝に抱いて言ってあげる人がいれば良かったのにと思う。
だが、この本の読後感は嫌悪ではない。
残るのは、命のぎりぎりの所まで自分を追い詰めながら、なおも俳句にすがって生きようとする壮絶な姿への感動だ。すべてを手のうちから奪い取られても、最後まで俳句への妄執に取りつかれてそれを離さない姿に心打たれる。
俳句って、こういうものだったんだ。年金暮らしの老人の手すさびではなく、わずかな教養をひけらかす道具でもなく、群れるための場所でもない。風狂の俳人たちのたどり着いた淋しい場所から世界を観ることなのではないだろうか。そんなことを考えた。
僭越でしかないと分かってはいるが、私も自分には最期まで俳句があると思っている。老いても、体力や身体の自由を失っても、物を観ることはできる。目が悪くなっても、記憶の中の物が見えるし。見ることは句を作ることだから。そう思えば、老いも怖くない。