p63「文章を書くのはなんのためか。~中略~狭量と不寛容と底意地の悪さにあふれた、争いばかりのこの世界を、ほんの少しでも住みやすくするため、生きやすくするため、肺臓に多量の空気が入ってくるために、書いているのではないのか?」
この下りを読んで、それこそ心がすうっと広がるような気がした。
今までは、けっこう恨みつらみを(なるべくそうとは見せないように見栄を張りながらも)文章で吐き出してきたのだと初めて自覚できた。そのために書いてきたかもわからない。それを続けても苦しくなるばかりだった。でも書かずにはいられなかった。
書くことはそうじゃないんだと、これを読んで腑に落ちたのだ。
国語の教科書から漱石や鴎外ら日本文学を追放しようとする動きがあることについての記述から、
p253「これは、支配層の立場から見れば、当然でもある。学校というのは、国家に有為で、企業に便利な人材を作る“工場”なのだ。~中略~
国家や資本は、なにも表現者がほしいわけではない。労働者、そして消費者がほしいだけなのだ。~中略~
それでは生きられない、生きたくないと思う人が、表現者だ。」
団体行動が出来ない、したくないという自分の特性は、もしかしたら、表現者でありたいという気持ちの表れなのかも知れないと思った。国家と個人の関係だけでなく、大小さまざまな集団についても同じことが言えるのではないだろうか。
熟年になって暇が出来ると、多くの人が様々な趣味の会に誘われる。どこも会員の数を増やして会の隆盛を図りたいから、勧誘する所が多い。会員が増えるということは、会費が増えるということでもある。最初はとてもやさしくて、みんな親切だ。しかし中に入って自由に泳ごうとすると、とたんに頭を押さえられる。会が必要としているのはおとなしい下っ端であって自分勝手な行動者ではないからだ。何かの会に所属すれば、孤独からは逃れられる。でもそれは嫌だと思ってしまう。「構成員」ということばを思い出してしまう。卑近な話に引き付けてしまったが、こんなことを考えた。
p277「文章を書くとは表現者になることだ。表現者とは、畢竟、おもしろい人のことだ。おもしろいことを書く人がライターだ」
p278「目の前が広々と開けること、周囲が明るくなることを、古来、日本人は『おもしろい』と表現してきた。『おもしろし』とは、本来、そういう意味だったのだ。」
「表現者とは、おもしろいことを、発見する人のことだ。」
「おもしろきこともなき世におもしろさを発見するのが、表現者であり、君子(屈託がなくおおらかで、おっとりと、他を攻撃しない人)であるのだ。」
p279「ところで、なぜおもしろいことを見つけなければならないのか。
それは、世界がおもしろくないからだ。
世界は愚劣で、人生は生きるに値しない。
そんなことは、じつはあたりまえなのだ。世界は、あなたを中心に回っているのではない。宇宙は、あなたのために生まれたのではない。」
p280「そもそも『おもしろきこともなき世』が常態なのだ。
だから、人類は発見する必要があった。歌や、踊りや、ものがたりが、<表現>が、この世に絶えたことは、人類創世以来、一度もない。それは人間が、表現を必要とする生物だから。雪の朝の冷気のような、清潔で柔らかな、明るさというより深みのある、気持ちが開けるような、生きる空間が広がるような、そんな『おもしろさ』が、人間にはどうしても必要だったからだ。」
すべて書き写したいくらい響く文章だ。
おもしろいことを見つけて、書く。文章で表現するとは、そういうことなのだ。嫌な、つまらない、愚劣なことが多ければ多いほど、いっそう「おもしろさ」が必要になる。つぶされないように、明るさと寛容さを失わないように、自分自身であれるように、書いて、生き延びる。
ばあさんの寝言みたいなことばかり書いているくせに恐縮だけれど、あたしはこの本を読んで、すごく感動したのだ。