トマト丸 北へ!

本と映画、日々の雑感、そしてすべての気の弱い人たちへのエールを

馬瓜エブリン「報道ステーション」松岡修造インタビュー(11月1日)「足はなんのためにあると思いますか」

昨夜の「報道ステーション」、松岡修造のインタビューがすばらしかった。笑顔とその人の良さを100%引き出すインタビューだ。

バスケットボール日本代表の馬瓜エブリン。両親はガーナ人だが、日本で育った。東京オリンピックでの活躍が印象的だった。

長い手足、大きな瞳、ワタクシの好きな大きな笑顔。これほどチャーミングな容姿に恵まれていても、日本では「違う」ということで差別的言辞を受けることが多かったらしい。「子どもは思ったままを言いますから」。笑顔で明るく返すことを心掛けていたというが、辛かったであろうことは想像できる。

お母さんが賢い人で、「どうしてわたしはみんなと同じじゃないの」と訴えるエブリンに、「みんなと同じでいいの?」と問い返したそうだ。そのときは、「みんなと同じがいいのに」と思った。

バスケットボールを始めて日本に帰化し、海外へ遠征するようになって、このお母さんの言葉の意味が腑に落ちるようになった。日本人であることに固執しなくなったという。

「松岡さん、足はなんのためにあると思いますか」とエブリンは問いかけた。

「歩くため?」

「松岡さん、足は逃げるためにあるんです」

心無い言葉を吐く人たち、自分を傷つける人たち、想像力の無い人たちから逃げるために足はあるのだとエブリンは言った。

「そしてまた、探すためにあるんです」

自分がいいな、素敵だなと思う人のところへ行くために、足はある。そういう人たちを探すために足はあるのだと。

ネットに「教科書に載せるべき言葉」と評されていたが、ほんとにそうだと思う。

相手がどう感じるかを想像する力のない人々、心無い人々からは逃げていいのだと思う。逃げるのが正解なのだ。そんな人たちに付き合うことはない。

そして、自分が一緒にいて楽しい人、触発される人、尊敬できる人を探して、その人たちと時間を共有するのだ。足は、そのためにあるのだ。

 

「フレイザー家の秘密」

U-NEXT で視聴。全6回。

原題は THE UNDOING 。「破滅」というような意味だと思う。

監督 スサンネ・ビア    脚本 デイビッド・E・ケリー

グレイス・フレイザー ニコール・キッドマン

ジョナサン・フレイザー ヒュー・グラント

 

まず、タイトルバックの音楽と幼い女の子の映像がすばらしい。グレイスの幼少期のイメージなのだろうか。際立って美しいけれど謎めいてもいる少女が走り、踊り、空へと両手を伸ばす。イギリスの童話の挿絵のような可愛い怖い、怖いけど可愛いという。この始めの部分だけでも繰り返し観てしまう。

本編は、アガサ・クリスティーの『検察側の証人』の裏返しと言えばいいのだろうか。すべての登場人物が疑わしい中で、さらに予想を裏切る驚きの展開が待っている。

グレイス・フレイザーは、小児がんの権威である夫とお金のかかる有名校に通う一人息子ヘンリーと3人で暮らすセラピスト。裕福で社会的地位にも家庭にも恵まれたセレブだ。その父フランクリン・ラインハート(ドナルド・サザーランド)は金と権力を持ち、グレイスを心から愛している。夫のジョナサンにとってはややけむたい存在だ。

ヘンリーの通う学校のチャリティー競売があった日の翌日、ひとりの生徒の母親が惨殺死体で発見された。殺されたエレナ・アルヴェスは貧しい画家で、他の裕福な保護者たちの中では浮いた存在だ。グレイスはやさしくふるまうが、やたらに距離を詰めてくるエレナにどこか薄気味悪さを感じていた。

エレナを殺したのは誰か。疑われたエレナの夫にはアリバイがあった。エレナと顔見知りのグレイスも事情を聞かれたりするが、思い当たることはまったくない。

回を追うにつれて深まる謎、不信と信頼の間でゆらぐグレイス。ジョナサンには秘密があったのだ。そしてグレイス自身にも語っていないことがあり、息子のヘンリーにも隠していることがあった。家族全員に秘密がある。

始めのころのシーンで、ジョナサンが息子を学校へ送って行くシーンが好きだ。

ヘンリーはバイオリンを習っている。

「このごろどうだ?」と尋ねる父にヘンリーは、「先生は口ではいいことを言うけれど、目が『止めてしまえ』と言ってる」。

「お前、ほんとうはバイオリンが嫌なんじゃないか。止めたいと思ってる」

「そんなことないよ。バイオリンはすごく好きだ。止めたくない」

「そんなら、先生なんかほっとけ。バイオリンは自分のためにやるんだ」

ヘンリーの顔が明るくなる。

「先生に敬意を持ち、一生懸命練習することは大切だ。でも、バイオリンは先生のために練習するんじゃない。先生なんか、バイオリンに顔を押し付けてやれ」

最後のひと言を除いては、いい会話だと思った。いいお父さん。

これって、すべてのお稽古事に言えることだと思う。ワタクシはどうも、人間関係に重点を置きすぎる。自分が好きなことなら、続ければいいのだ。「先生なんかほっとけ」って、気持ちが楽になるいい言葉だ。

ジョナサンは、そういうことを息子に言ってやることのできるいいお父さんで、息子のヘンリーも彼を慕っている。末期がんに苦しむ子供にも、彼はやさしい。ユーモアで不安な心を癒してあげる姿にはじんとする。

しかし人間は複雑で、思いもよらない側面が露わになることもある。セラピストのグレイスにも不安定な部分がある。グレイスの父親フランクリンにも、娘に明かしていない暗い過去があるのだ。

それらの二面性が表面に出てくる場面に迫力があった。そこまで持って行く展開も極上。

これはすごく面白いドラマだ。まだ観ていない人がいるだろうからこれ以上は書けないが、観るべき作品だと思う。

読書の秋はやっぱり宮部みゆき

今週のお題「読書の秋」

まだまだあるとは言っても読みつくしてしまうと楽しみがなくなるので、わざと間隔を置いて読んでいる宮部みゆきの本。禁断症状が出て来たのでついに手に取る。

『この世の春』上・中・下(新潮文庫

時代物のミステリー仕立てという著者得意のジャンルを思い切り書き切っている。多重人格、虐待、マインドコントロール。現代的な題材が時空を飛び越えた場所で炸裂。この本を手に取った者は、がんがん引き込まれて読むことになる。

ワタクシが好きなのは田島半十郎。直情径行で裏表がなく信義と忠義に堅く、剣を良くする。いとこ同士でなければ多紀と結ばれてほしいところだ。

元家老の石野織部もいい。北見藩を守り、主君を守ることに命を懸けながら、無辜の民の犠牲に目をつぶることも潔しとしない。栄達や蓄財ではなく自分の義を貫くことが彼の人生なのだ。これって、サラリーマンの理想の生き方でもあると思う。

会社のために働きながらも自分自身を見失わず、自分の時間を生きる。この話はもちろんフィクションだが、古今東西変わらない、生き方の理想だ。自分自身を売り渡してしまっては、たとえ出世しようとも空しい人生なのではないだろうか。

織部は「根切り」にされた一族や、犠牲となった幼い少年たちや、精神を病む若君を見捨てず、命を削ってまで戦う。苦難の道を選んだわけだが、哀れな者たちを見捨てて悲劇をなかったことにしてしまわなかったことにより、彼は誰よりも自分自身を生きることを得たのではないだろうか。

何かを失うまいとして逃げ続ける人生は、結局は自分自身という掛けがえのないものを見失ってしまうことになるのではないか。表面の安寧を得たとしても、空しいのではないか。

ヒロインの各務多紀もすてきだ。気の強さと言うか、ぐずぐず顧慮しない、理の勝った性格の中に深い情がある。織部には葛藤があるが、多紀にはない。ことさらに確立しようとしなくても、多紀の中には明るい自己肯定がある。それが姑の暴力から自分自身を救い出し、後には北見重興が精神の自立を成し遂げる手助けをすることにもなるのだ。

隠居して作事の記録をまとめるライフワークにいそしんでいる元作事方組頭の父の家で、出戻りの多紀は暮らしていた。ある夜幼い赤子を抱いたひとりの女が助けを求めてこの家を訪れる。一晩を泊めて翌日寺へと二人を逃がす父。赤子は成り上り者の側用人伊東成孝の一子であった。成孝は彼を寵愛していた若君重興が隠居させられたことにより失脚したのだ。

北見藩は急逝した大殿に代わって藩主となっていた若君重興を「押し込め」、親戚の若君を主君として据えた。そして重興が重用していた伊東一派を追い落としたのである。

輝くような美貌と英邁さを兼ね備えた若君はなぜ押し込められなければならなかったのか。そこには恐ろしい秘密が隠されていた。

この謎解きがするすると果てない糸を繰るように展開していき、息をするのも忘れるくらい面白いのである。上・中・下三巻あるので一週間もたせようと思ったのだが、我慢できず三日で読んでしまった。

一つ一つの描写、語り口が生き生きと読者の心をつかむ。二巻の半十郎と五郎助の死闘の場面はちょっと忘れがたい。

エリカ「最高の友は、私のなかから最高の私を引き出してくれる人である」

朝のテンションを上げるルーティンのひとつが、テンションの上がる本を読むこと。朝一番に良い言葉を入れる。今読んでいるのが、エリカ著『ニューヨークで学んだ「私を動かす」47の言葉」(宝島社)。

エリカは単身ニューヨークで起業し、成功した女性。ERICA MIYASAKO。

この人の言葉は情があって深く、心に響く。またこの本は47の短いパートから構成されているので、朝少しずつ読むのに適している。

昨日読んだ箇所があまりに良かったので、書き留めておく。

47の章では、それぞれ冒頭に著名人の箴言が引かれている。その言葉の表面の意味だけではなく、エリカさんが自分の中で消化し意味づけした文章が秀逸だ。

35 誰かに必要とされる人間であれ     エマーソン

この米国の思想家の言葉は、いろいろな場所で引用されている。特に晩年の生き方などを説いた本の「充実した老後には豊かな人間関係が必要」というような項目の中に見受けることが多い。

でもこういうのは正直げんなりする。「豊かな人間関係」を持っている人間はそもそも老後の生き方に悩まないのではないか。今現在それを持っていない人が、「そうか<豊かな人間関係>が必要なのか」と知って、コンビニに行って即入手できるようなものだろうか。年を取るということはある意味孤独になることだし、さみしい老人は多いと思う。こういうことを書くひとの神経って。

エリカさんは違っている。

「『必要とされる』という言葉にも、さまざまな捉え方があり」と書かれている。どの捉え方にも正しい、間違い、はないという記述も懐が深い。

エリカさんの「必要とされる」は「期待される」や「役に立つ」ではなく、「あなたの存在が、誰かの手助けになるような、そんな人でありなさい」だとある。その例は、

・相手を自分と同じか、自分以上に大切に考えることができる人

・相手をいつも尊重できる人

・年齢、性別、豊かさなどで区別しない人

・モラルや社会倫理の概念をしっかり持っている人

・人間関係に損得勘定をつけない人

・人、動物、植物などの生き物に愛情深い人

・素直に表現できなくても、思いやりがあり優しい人

・人に親切にすることを心掛けている人

この本は年寄へ向けて書かれた本ではないが、ここに挙げられた例は、若い人や限られたエリートだけでなく、高齢者や社会的弱者でも今すぐに努力目標にできることだ。それゆえに深いということができると思う。

引用が多くなって恐縮だが、次の一節はすばらしいと思ったので、書き留めておきたい。

「もしあなたが、私なんて誰にも必要とされていない、どうせ私なんて、いてもいなくても同じ、というように、自分の存在理由や存在価値を否定しているとしたら、右のリストの中から自分に当てはまっているものをチェックしてみましょう。必ず当てはまるものがあるはずです。

 この世の中に、存在する必要のない人なんて一人もいません。あなたの存在は、必ず誰かの心の支えになっています。」

 このリストに当てはまる項目を自分の中に増やしていくことで人間関係の不安を改善していくことができるとエリカさんは言っている。これはまさに「幸せな人は善き人である。善き人が不幸になることはない」ということだと思う。どんな状況下にあっても、「負け組」になっても、これらを目指して努力していくことは可能だし、努力することが人生を豊かにし、不安や自己不信から自分を救ってくれるだろう。

 エマーソンの言葉のもう一つの意味として、「誰かを必要とばかりする人、いつも誰かをあてに生きているような人にならないように」というメッセージが含まれていると述べられている。これも大切なことだと思う。

「誰かを必要とばかりする人は、(中略)自分の足でしっかり地に立つのではなく、誰かにもたれかかってしか立てない人です。また、人生を効率よく歩むために使えそうな人をはじき出し、消耗品感覚で利用しながら世渡りしていく人です。」

 利用すると言っても、いろいろある。経済的に寄りかかるとか出世のために利用するとかもあるけれど、自分の傲慢さを正当化するために踏みつけるマウンティングの踏み台として利用することもある。誰かを踏みつけなければ成り立たないような人間関係、コミュニティは貧しい。そういう人になるのは嫌だし、都合の良い人になって利用されるのも避けたい。

 元に戻るが、良き人がそこにいるだけで、他の人は勇気が湧いてくる。自分らしくしていられる。すごいことだと思う。善き友でありたい。そう努力したいと思う。

 

小林弘幸『自律神経が整えば休まなくても絶好調』 ベスト新書

この本はいい。とても実用的だと思う。

①「休息は『動かないこと』ではない」と著者は言う。「坐り込まずに動いたほうが急速になる」。「休む」ということの内容を考え直したほうがいいという提案だ。

交感神経も副交感神経も共に高く維持されているのがいいのだそうだ。「『休息』は、副交感神経の働きを戻して自律神経の働きを整えること」なのだ。

この下りで、「交感神経も副交感神経も(両方が)低い人は体力がなく、非常に疲れやすい」とあったのを、自分のことだ! と思った。ハイになって機動力が高まることもまれにあるのだが、往々にしてその反動で疲れ切ってしまう。人生のある時期には気力も体力も枯渇してしまっていた。この一年、引っ越して新居に移ってから調子がいいのは、ストレスが少なく、自律神経が平穏であるためだと思う。片付けを終えた後シンクやガステーブルをささっと拭く。これさえ以前は出来なかったのだ。疲れ切っていた。穴の開いた鞴みたいだった。

内心焦りながらダラダラするのではなく、休む時は意識して休むと決めて休む。適度に体を使って神経を休めるなどのテクニックを自分の生活に取り入れようと思う。

夜はテレビの前にへたり込むのではなく、サクサクと片付けを済まし、気分を晴れやかにして早めにベッドに入る。何というか、疲れに体を乗っ取らせないということだと思う。自分で体をコントロールするのだ。

②人間関係のイライラは、受け身の発想から抜け出して手を打つ。

「やらされている」感を一掃して、自分で「自分の時間」を作り出す。ワタクシは本来は24時間すべてを「自分の時間」としてマネジメントすることが可能なのだ。家事はきりなく繁多とも言えるが、「仕事の時間も自分の時間に出来る」とこの本に書かれている通り、家事に追われるのではなく自分で意識して集中的に取り組むことが可能だ。イライラするのは、すべてが後手後手に廻っているからかも。

「ただでさえもったいない時間を不快な感情で塗り固めては自分が損だ」とあるのは、ほんとうにそのとおりだ。「割り切って気持ちよく接待する」。私の場合接待ではないが、人間関係全般、そのつもりでこなしていくほうがいい。いちいちぎくしゃくしていては、ほんとに「自分が損」なのだ。

③明日の仕事の準備をしておく。

「自分のやるべきことが見えていると、充足感が違う」

自分のスタンス、方向性がはっきりしていれば、気分よく一日を始めることができる。

①とも関連するが、「不快なオーラをふりまく人にケチをつけられても、『自分には大事な仕事が待っている。こんな人を相手にしている場合じゃないとスルーできる」。これがいちばんだと思う。他人の不快なオーラを自己責任のように思って他人をなんとかしようとジタバタしていた。そういう人が生存していて接近してくることがあるのはワタクシのせいじゃないのに、いちいちまともに取り合っていたのだ。

その他、「一日30分の片付け」「つるまない」「昼休みは本を持ってカフェや公園に行く」「早々に諦める」など、役立ちそうなヒントが満載だ。

 まとめきれなかったが、この本は繰り返し読む本だと思っている。

 

東京ステーションギャラリー「小早川秋聲 旅する画家の鎮魂歌」展

久々の美術館。なんと「日時指定制」になっていた。ネットで申し込み、ローチケで購入。煩雑なようだが並ばなくて良いし、あまり混まないし、私にはけっこう快適だった。この制度をずっと継続してほしい。

小早川秋聲は、大正~昭和期の日本画家。今まで知らなかったが、良い絵だった。

「長崎へ航く」

 日本へ旅立つ船を見送る女たち。オランダ更紗の衣服に包まれた堂々たるお尻が魅力的だ。いつまでも、いつまでも見送っていたのだろう。

「未来」

 まつ毛の長い美しい赤ん坊。布団まわりに置かれた数々のおもちゃに、あふれる愛情を感じる。

「国の楯」「虫の音」

 戦意高揚の精神よりも、戦の酷さ、兵士たちへの鎮魂の祈りを感じる。

 物を観るということは、対象を愛することなのだと思う。

その他、いくつかあった達磨の絵が良かった。食えないおっさん、という感じ。何度でも起き上がってやりなおそうという気持ちが湧いてくる。実際、そういうエールを込めた作品だと解説板にもあった。

 達磨さんは、足が萎えるまで座禅をして、ふっと悟ったときには歩けなくなっていた人だ。今までなんとも思っていなかったが、これらの絵を観て、達磨さんが好きになった。不屈の魂というより、明るい物の見方、飄々とした中にある希望のようなものを感じる。

 東京ステーションギャラリー丸の内北口の改札を出てすぐ左側にある。帰りにエキナカの「きらく」で蕎麦と生ビール。

秋の小さな旅

今日は半日の小旅行に出かけた。

大好きな鎌倉。半日なので、あちこちぶらぶらとはいかない。2年ぶりくらいの鎌倉だが、由比ガ浜の海を見て蕎麦、と的を絞った。ここまで来たらせめて長谷寺へは行きたいところだが、今回は我慢。

海は美しかった。房総の海、伊豆の海も好きだが、鎌倉の海はまた格別だ。水平線までキラキラと光があふれて、心はサーフボードに乗って沖へと向かう。スタバで詰めてもらったラテを飲みながら、ひとりの時間を満喫した。海と空と自分がしっくりとなじむ。それが鎌倉の海だ。

蕎麦はまずかった。コロナの前はひと月に一度くらい通っていた店なのに、違う店だったかと騙された気分にすらなった。天ぷらがべとついている。箸でつまむと、じゅわーッと脂っぽい衣がまとわる。蕎麦は実はもともとそれほど秀逸な店ではなかった。今までは雰囲気と接客が良くてひとりでもゆっくりできる店だったのに、その接客もひどかった。蕎麦屋は昼間っからまったりと酒が飲める場所だと杉浦日名子さんが書いておられたが、酒はともかくそういう懐の深さのようなものが蕎麦屋の魅力なのに、それが消失している。

コロナの前と後で変わってしまったのだろうか。心を合わせてがんばっている店や旅館もあるのに、この店は劣化している。ワタクシはもうこの店を訪れることはないだろう。白い大ぶりな暖簾と建物のたたずまいが以前のとおりなだけに哀しい。

帰る道々、新しい店を開拓しなくては! と思い、それも楽しみだと思った。北鎌倉あたりがいいかもしれない。気持ちの良い人たちが働いている気持ちの良い店がどこかにあるはず。

海を見ているときにふっと池田晶子さんの文章を思い出した。「自信と言うのは未来に対して持つものだ。現在の自分について感じることは事実であって自信ではない。まだ来ない未来の自分について確信することを自信と言うのだ。」というような内容だった。少し違うかもしれないが、心に残っている。唐突だが「自信を持とう」と決めた。何も持ってないワタクシが前へ進む原資はそれしかない。残りの人生、きっと充実して楽しいものにできる。

帰りの電車の中から都立美術館のポスターが見えた。来週はゴッホだ!