トマト丸 北へ!

本と映画、日々の雑感、そしてすべての気の弱い人たちへのエールを

『夜明け前』   作・演出 高橋いさを

 

「よしのぶちゃん誘拐事件」は、幼心に強い印象を受けた事件だった。日本中が子供の無事を祈っていたと思う。憎むべき犯罪、と誰もが憤った事件だ。

この劇は、犯人の家族たちの懊悩を描いた作品だ。

一人一人の人間が優れた脚本によって立体的に描かれる。どの場面、どのセリフも、一つとして無駄な要素の無い舞台だった。

殊に犯人の中原保という人間の優しさ、ずるさ、そして底の知れない淵を覗くような恐ろしさがよく描かれていた。

保は受刑中にキリスト教に帰依する。悔恨の情のこもった数多くの短歌を残し、自分を捉えた刑事に遺書を残して処刑されるのだ。

幼い子供を両親から奪い、手に掛けるという非道な犯罪を犯す芽と、悔恨の余生を送る芽と、両方が保という一人の人間の中にあったことを考えると人間という存在の複雑さや危うさを思わずにはいられない。

保に執拗に自首を突き付ける五男満の正義感や身内だからこそ保に抱く憎しみも説得力がある。そこがよく描かれているので、終わりごろの「満は本当に保が好きなんだなあ」という兄弟たちの言葉が胸に沁みる。

他の兄弟たちも心を痛め、世間を恐れ、苦しみ続ける。兄弟たちの母の「受け入れるしかない」「罪を犯しているのなら罰してください」という言葉も胸に食い入る悲痛な言葉だ。

人生は不条理だし、人はそれに耐えて生きるしかない。それでも、生き続ける。そんなことを考えた。

しかし暗い深刻な内容であるにも関わらず、不思議に観終わって帰るときに嫌な気持ちは全くなかった。