この本を読んだわけ=私は人間関係がうまくいかない
私は人間関係負けっぱなしだ。
幼稚園の砂場からずっとうまくいかない。
男の子に交じって遊んでいたブランコから飛び降りる遊びを私だけが先生に注意されて「男の子は注意しないの?」と言い返し、先生との間が気まずくなった。
手にいぼが出来ていた園児を「気持ち悪い」といじめたことがある。(この思い出には今でも胸が痛む。私はほんとに嫌な子だった)先生は私を責めるのではなく、ただみんなの前でその子の良い所を誉めた。それを聞いて私は反省した。いぼがあってもいい子なんだと思った。先生の言い方やたたずまいから、ひどいことをしたのだと悟った。ブランコの件は別として、いい先生だったのだ。
そんな風に性格が悪く乱暴なため友達もできず、しょっちゅう幼稚園を休んでいた。
小学生になるともういじめられ、ハブられキャラが定着。
とにかく「グループ」が作れないし、団体行動ができない。普通にしていて浮いてしまう。孤立していたからやむを得ずオトナシクしていたが、ほんとうは園児時代からの悪い性格が残っていたから、たまに友達ができても長続きしないのだった。
反省して一生懸命周囲に合わせようとしても、うまくいかない。そのままで晩年が来てしまった。もう大丈夫なはずだと思ってまだまだ同じような辛い目に遭うのであった。
<何かが間違っている><死ぬまでにもう少し人間関係を改善したい>という気持ちからキンドルアンリミテッドのリストを眺めてこの本を選んだ。
人間関係うまくいかない具体例
・団体行動が出来ない。仲間に入れてもらっても自分ごとに夢中になってしまい他の人たちとペースを合わせることが出来ず、リーダーをイラつかせてしまう。
・好意を持って近づいてくれる人がいても見当違いの受け答えをして白けさせてしまう。
・大切にしてくれる人を裏切ってしまう。
・人と居るとわけもなく落ち込む。
・人と居ると緊張する。一人になりたい。
・「この人がいなくなったら自分は悲しむだろう」と思える人間がいない。
・「ぼっち」と見られたくないので好きでもない人に無理やりひっついていく。
・孤独が怖くて自分を利用するだけの人間から離れることができない。
キーワードは「共同体感覚」と「勇気づけ」
人間関係を改善する大きな二つの要素は、「共同体感覚」と「勇気づけ」だとある。
この二つを手掛かりに考えてみた。
<人間関係>についてあまり気にしなくていい二つの理由
人間関係について考察しようとしてはいるのだが、最近、少し気軽に考えてもいいのだと思っているので、そのことについて書いておきたい。
⑴この本とは別のところで目にした記述だが、「人間関係とは政治である」「政治とは利害関係と力関係にすぎない」そうだ。まとめれば「人間関係とはしょせん利害関係と力関係にすぎない」ということになる。わりと腑に落ちる。
人間関係は人格とか個人の資質によらない。たとえばジョーク一つにしても権力者が言えばみな笑うが、末端の人が口にすると無視されるかもしれない。「何を語るかではなく誰が語るかが重要」なのだ。美人が顔をしかめれば心配されるが、そうでない人の場合「感じが悪い」と思われたりする。
一つの集団の中で末端の人ほど高いモラルを要求されたりする。力があれば少々の欠点や失敗は許される。
「いじめ」にしても、今までいじめられていなかった人間がちょっとしたきっかけで虐められる側になったりする。同じ人間なのに状況の変化で立ち位置が変わってしまうのだ。
⑵<2対6対2の法則>
この本に書かれていたことだが、どんな人も、どんな場所でも
相性の良い人が2、ふつうの人が6、相性の悪い人が2 という割合で存在するそうだ。つまり相性の悪い人が2割くらいは居て当然、そして6割の人は特に何も感じていないのだ。
根拠はわからないが、これがフツーだと思えば気がラクになる。
相性の悪い人に注目してしまい、自分の中で大きな存在にしてしまい何とかしようとじたばたしていると「6割の普通の人」まで敵になったりしてしまう。
また、イジワルをしてくる人も力関係でやむなくやってるのかもしれないし、仲良しも実は利害関係があって自分の得になると思ってやってるだけかもしれない。
むやみに自分を責めなくていいのかもしれないということだ。
私の場合、相性の良い人たちを無視して相性の悪い人に必死におもねったりしてしまう。あまり気にしなくていいのかも、と思ったことだった。
「共同体感覚」とは
共同体感覚とは、所属感、安心感、信頼感、貢献感、を総称したもので、精神的な健康のバロメーター。
すべて「感」がついているのがポイントで、つまりこの感覚は主観的なものであり、数値で表されるようなものではない。
「共同体感覚」が欠如するとどうなるか
「突飛な行動・乱暴な行動は共同体感覚の欠如から起こる。それは勇気に欠けているから」とある。
私は、このように考える。
どこかに所属すると決めることは勇気のいることだ。その共同体の人々、少なくともその中の何人かを信頼していなければ所属はできない。その信頼は無条件のものでなければならない。勇気がなければ信頼できない。いつも離れたところをうろうろしているから何の気なしにしたことが非難を浴びてしまう。利害を共にする人=味方がいないからやられほうだい。そのためにますます勇気が枯渇する。
「共同体感覚」を持つには
⑴無条件に信頼できる人間を見つける必要がある。そのためにはまず自分自身を無条件に信頼していなければならないと思う。
無条件の信頼が無いとすると、そこにあるのは利害によるつながりでしかない。つまり「利用される」もしくは「依存する」関係となる。
⑵所属して心地よいかどうか見定める。
どんな共同体が心地よいかと言うと、相互に勇気づけができること、自由で主体的な存在でいることが可能なこと、利用されず、自分も依存しない関係が築けることが、その条件になる。
⑶自分で決めて貢献する。
パワハラや強制によって利用されるのではなく、自分で決めたことで楽しく貢献する。
⑴⑵⑶と挙げたが、なかなかできることではない。
それについて、「非力さを嘆くより理想を追い求め<なりたい自分>へと自身を変化させて」行けばよいのだと書かれている。なるほどそういうことか、と思った。
「共同体感覚」は「(それを)維持する努力を必要とする」ものだとも言う。
曲解している可能性もあるが、このあたりはちょっと辛そうだし「ねばならぬ」と縛り付けられそうできびしい。
私的には、うまく行ってない感があるときには⑴に立ち返って「自分自身を無条件に信頼する」から始めるのが良いのではないかと思う。苦しい努力をするのではなく、自分に注意を向け、自分を満たし、愛し、大切にしていれば自然に貢献する気分になるのではないだろうか。
私が所属したい共同体の条件=そこに所属するかどうかは自分で決められる
「所属は自分で決められる」。この本では繰り返し「自己決定」ということが述べられているが、どの共同体に所属するかも自分で決められる、とある。
もちろん、生国は生まれた時すでに決まっているし、育つ場所、どんな家族のもとで育つかなどは全然決められない。
しかしある程度成長すれば選べる範囲も広がるし、所属の形態、かかわり方は決めることができる。
貢献の仕方も自分で決めることができる。
ではどのような共同体に所属したいか。
①無条件の信頼を寄せることのできる人間が一人以上いる。(そのためには、まず自分自身を無条件に信頼する必要がある)(自分を信頼できない人間は他人も信頼できない)(自分自身への無条件の信頼なしでの他者への信頼は依存か利用されることを招く)
②相互に勇気づけのできる人たちで構成されている。
奪われない、マウントされない、人を否定しない。つまり人を否定しない仕組みの
共同体。誰か弱い者を虐げることで成り立つ集団や「仲間」には私は入りたくない。
③そこに所属するかどうか、自分で決めることができる。
幼い時代の「家族」は自分では決められない。ほとんどの学校もそうだ。ある程度大きくなったら、自分で決めて所属したい。嫌になったら逃げだすことのできる自由がほしい。
④貢献の仕方を自分で決めることができる。
最悪、望みと大幅に異なっている集団に所属せざるを得なくなったとしても、所属の
形態やかかわり方は自分で決めたい。
『ミレニアム』のリスベットのことを思う。彼女は国家的陰謀の犠牲となり、小児精神
病院に収容されてしまう。何年間もテレボリアンという異常な性癖を持つ医師に拘束
された。13歳の誕生日にリスベットは、自分への誕生日プレゼントとして医師とは
いっさい口をきかないと決めたのだ。究極的にはそういうこともあるだろうと思う。
「貢献」の仕方で大事だと思うのは、まず「自分自身に」貢献することだ。自分自身
は二の次というのは、貢献ではなく「利用される」ことだ。たとえ自ら進んでそうし
たとしても、そういう「貢献」からは「苦」しか生まれない。共依存になることも。
⑤失敗が許される。
人は何度も何度も失敗する。同じ失敗を繰り返す。誰もが失敗する。これが私の思う
失敗の三原則だ。金輪際失敗しないのは、もう死んだ人間だけだ。できれば失敗では
なくチャレンジと言いたいものだ。
⑥失敗する自由も含めて好きなことができる。
その共同体属するために我慢することよりその共同体に属しているから自由にできる
ことの方が多いのでなければ。みんなが足を引っ張り合ってるようなところは嫌だ。
山に行ったり一人では危険度が増すとき止む無く団体の一員として連れて行ってもら
うのだが、まあ、この集団になじめない。私はリーダーを怒らせてしまう。小学生のころから「勝手な行動する」と非難されていて、そこ、変わってないのだ。
高い所は諦めて、「行きつけの低山」に行くことにしているゆえんだ。でも山は危険
を伴うから、リーダーの気持もわかる。悪いのは私だ。
誰でも何らかの共同体に属している
濃い薄いの違いはあっても、引きこもっていても、万人は何らかの共同体に属していると思う。
column5 にはアドラーの言葉として共同体感覚とは「過去未来も含め、人間だけではなく、生きとし生けるもの、そして無生物や宇宙までもつながっている感覚」だと記されている。
アドラーの弟子ドライヤースは「人間で構成された共同体」と定義しているそうだが、
私はアドラーの考え方の方が好きだ。たとえ身近な共同体の中で孤立することがあっても、大きな目で見れば孤独ではないと考えたい。
「村八分」とか言ってもせいぜい三、四里四方の範囲のことだし、クラスでハブられても三、四十人の中のことだ。
大きく考えた方が楽しい。
テレビドラマ『御上先生』のコンセプトとして「パーソナル イズ ポリティカル」
(個人的なことは政治的なこと)が挙げられていたが、これに近い感覚だと思う。
一人の人間の全く個人的な在り方、行動も、社会に影響を与える。ということは直接社会に働きかけなくても、人としての在り方、存在として貢献できると言えるのではないか。
拒否したい共同体
①信頼できない人間が中心メンバー
②私に関心がない人たちが大勢を占める
③私を利用する人たちがいる
④弱い者の勇気をくじく人たちがいる。そのことで成り立っている集団。
弱い者の勇気をくじくのは、自分で自分に勇気づけができないから、他人の勇気を
くじくことでエネルギーを得ようとするのだ。こういう人たちはこれまでの人生で
自分も勇気をくじかれてきた。負けが込んでいる。だからと言って負けてあげても
底なしに餓えているからどうにもならない。どこかでコツンと底を打ってはっと
気づくのだと思う。だがそこまで付き合いたくない。
この本は内容を刷り込むのではなく、考えさせる本だ。体系的なのかどうかわからないが、読み込むことで自分の中で問題を提起し、考え、自分で選ぶように書かれている。こういうのがアドラー的なのだろうと思った。
私は考えながら読書したい人なので、この本はとても良かった。