トマト丸 北へ!

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「エイジズム」について考えた  その親切を断る権利はないのか

高齢者ということで手を差し伸べられることに高齢者が反発することを非難する向きがある。

高齢者=弱者とみなして様々な場面で手を差し伸べる人がいる。「それは優しさの表れだからいいことじゃないか、素直に喜べよ、感謝しろよ」という意見が多いのだろう。ふらふらしているお年寄りが目の前に立っているのに優先席に座り込んで寝たふりをしている若者よりよっぽどいいじゃないか、という意見。

「善意」なんだから。

親切のつもりの行いでも迷惑なことはある。それは拒否していいはずだ。でも高齢者がそれをやると非難されることがある。

「高齢者」の立場から敢えて言うと、「善意」の押しつけは「正義」を振りかざすのと同じ臭いがする。

電車で席を譲る。相手が「私はそんな年寄じゃない」と怒ったりすると、「気持ちがねじ曲がってる。親切を素直に受け取れないのか。」「勇気を出して譲ったのに怒られていたたまれない気持がわからないのか」と非難される。「たとえその席が必要でなかったとしても大きな気持ちで親切な気持ちに感謝したらどうなの」。

でも、そもそも何のために席を譲るのか、考えてもらいたい。

相手に楽をさせてあげたいからじゃないのだろうか。相手のためを思っての行動のはず。自分の親切心を満足させたいからではないはず。

それを怒らせてしまっては、きびしいようだがやはり失敗なのではないだろうか。

怒ったと言うことは、傷ついたのである。年寄扱いされて傷ついたのだ。

「私はそんな年寄じゃないよ!」と怒鳴られてあなたは傷ついたかもしれない。電車内という狭い空間で怒鳴られて恥ずかしく、いたたまれなかったかもしれない。だけどその前にその譲られた老人も満座の中で年寄だと名指されて恥ずかしく、いたたまれないと感じたのではないだろうか。

そのうえ、「年寄なら年寄らしくありがたく譲ってもらえばいいんだよ」とそしられる。

ほんとのところ、たいていの年寄は少しでも若く見られたいのが本心なのだ。自分が年をとったことを認めたくない気持ちでいっぱいである。それを満座の中で「あんたは年寄だね!」と言われたも同然なのだから。

小中学生がはにかみながら「どうぞ」と言ってくれるとか、中年以上の人であってもそこにわずかなりとも敬意が感じられれば怒ったりはしないのではないか。譲るにしても目立たないようにそっと席を立つくらいのスマートさがあってもいいのではないか。

もしほんとに優しさから行動していたのなら、老人の自尊心を傷つけてしまったことに気づくだろうし、それをすまないと思ったりするのではないだろうか。ほんとに思いやりがあるのであれば。

それを「私がなにか間違っていたのでしょうか」と「傷ついた自分」をアピールし、SNSなどで他の人たちに「可哀そうに」「そんな心のねじけた年寄なんかほっとけ」と非難させるのって。

「善意から始まったことなのに」と言うが、人に親切にするって、とてもデリケートな行いだと思う。ほんとにその人が必要としていることなのか、その人を見下すのではなく一人の人間として尊重して手を差し伸べているのかどうか、省みる神経の無い人の「親切」は「自己満足」でしかないのでは。

今も忘れない。以前電車に乗ってつり革を持ちぼんやりと考え事をしていたら、突然少し離れたところに坐っていた白髪頭の中婆さんから「そこのおかあさん、座って!」と呼びかけられた。「けっこうです」と言うのに、「おかあさん、いいから坐って。おかあさん!」と大声で叫びたてるのである。

たぶん疲れているように見えたのだろうが、はっきり断っているのだ。それを聞こうとしない。こんな中婆さんから「おかあさん」呼ばわりされるなんて、なんと情けないというのが正直な感想だった。

車内の視線が集まっている。いたたまれずその場を逃げ出す私に向かってその女はなおも「おかあさん!」と呼びたてるのだ。

とうとう別の車両まで逃げた。

これって、「善意」なのか?

書いていて思ったのだが、その女が「おかあさん」と呼びかけたのは「思いやり」で、「そこのお婆さん」と言うところを一代繰り下げてくれたのかもしれない。しかしますます腹立たしい。

電車の中でも気を抜いてはいけない。今ではどんなに疲れていても背筋を伸ばし、できるだけ狂暴そうな表情を心掛けている。